アインシュタイン博士の日本への船旅 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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アインシュタインが日本を訪問して、各地で歓待されながら講演会と観光をこなしたことは有名で、門司港から下関での観光も歴史に残っている。

ここでは日本に到着するまでの船上での日本人との交流の物語をここに記憶する。


参考

① 急患のインシュタイン船上で診察 偶然乗り合わせた日本人医師の診断とは?

早川智(AERA、2017.12.28、参考)

船上で急な腹痛と下痢、嘔吐に襲われたアインシュタインを救ったのは、日本人医師だった。

『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、アルバート・アインシュタインを診断する。

*  *  * 

【アルバート・アインシュタイン (1879~1955年)】

時々、飛行機の中で「お医者さんはいませんか」というアナウンスがある。

数年前のとある学会の帰り、米国の某大都市から成田に向かう飛行機でお呼び出しを受けた。周りの座席には斯界の大物教授がおられるが誰も手を挙げられない。なんとなく気まずい沈黙の後、多分この学会の発表者ではなさそうな少壮のお医者さんが名乗り出て皆ほっとしたものである。筆者の専門であれば協力したいが、おそらく産婦人科感染症の出る幕はあまりないと思う。船旅が主流だった第2次世界大戦前には、船医がいなかったり、専門外だった場合、乗客の中のドクターが活躍する機会はもっと多かったはずである。 

■大物理学者の急病 

大正11年(1922)10月8日、マルセイユから日本郵船の客船「北野丸」が日本に向けて出港した。地中海からスエズ運河を経て神戸まで1カ月半の旅である。一等船室にはフランス大使石井菊次郎や尾張侯徳川義親とともに、出版社「改造社」の招きで初めて訪日するアルバート・アインシュタインの姿があった。 

1879年、南ドイツのウルムのユダヤ人中流家庭に生まれたアインシュタインは、チューリヒ連邦工科大学で物理学を専攻したが、講義にはほとんど出席せず、自分の興味ある分野だけ勉強したという。何とか卒業はしたものの大学には残れず、アルバイト生活を経て比較的暇なスイス特許庁に技官として就職し、自由時間に理論物理学の研究に浸った。1905年、博士論文として「分子の大きさの新たな測定法」を書き上げ、さらに「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関する論文を立て続けに発表し時代の寵児となった。チューリヒ大学の助教授、プラハ大学教授、そして母校チューリヒ連邦工科大学教授に就任し、原子力の理論的根拠となるE=mc2の方程式や空間を曲げる重力レンズ効果の提唱でドイツ物理学界の第一人者となっていた。 

北野丸は順調にインド洋を航海していたが、大物理学者は数日来悪化する腹痛と下痢・嘔吐に襲われた。この船には、欧米視察から帰る途中の九州帝国大学(現・九州大学)外科学教授・三宅速が乗り合わせていた。 

顔面蒼白で死の恐怖におののく大物理学者に三宅が下した診断は「腸カタル」であった。現代の病名を当てはめると、急性胃腸炎に相当すると思う。 

熱帯・亜熱帯における旅行者の下痢症はまれではないが、予後良好なカンピロバクターやサルモネラ、ビブリオによる腸炎と赤痢、アメーバ赤痢、毒素原性大腸菌、ランブル鞭毛虫、コレラなどとの鑑別は臨床症状だけでは難しい。ましてや当時の客船では補助診断法はなく、四診と臨床的な勘だけだったと思う。どのような薬を処方したかは興味あるところだが、残念ながら記録はない。数日で症状が軽快したアインシュタインは11月12日、香港沖でノーベル物理学賞受賞の電報を受ける。 

■アインシュタインと三宅のその後 

11月17日、日本に到着したアインシュタインは各地で大歓迎を受け、日本には非常に良い印象を持った。偶然主治医となった三宅とは帰国後も親密な手紙のやり取りが続いた。 

しかし、1930年代ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を奪取し、ベルリン郊外に居を構えたアインシュタインも永住を許されなかった。米国に亡命したアインシュタインはプリンストン高等研究所教授の地位を得る。一方、彼が愛した日本はナチスの同盟国となり、否応なしに戦争に巻き込まれてゆく。三宅は胆石の研究で学士院賞受賞、日本外科学会会長の重責を果たし、退任後は子息三宅博が同じく外科学教授となった岡山に隠棲するが、昭和20年米軍の空襲で死去した。 

戦後、恩人の死を知ったアインシュタインは丁重な弔文を送り、その一部は墓碑銘として三宅の郷里徳島に残る。「ここに三宅速とその妻三保が眠る。彼らは、人類の幸せのために尽くし、そして人類の過ちの犠牲として逝った」


② 三宅速
 
美馬市観光情報(参考)

郷土の偉人  町が生んだ世界的外科医

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三宅 速(はやり)

1866年3月18日~1945年6月29日(享年80歳)

1866(慶応2)年徳島県穴吹町舞中島の医家に生まれる。 12才の時上京、25才で東京帝国大学医科大学(現東大)卒業後、徳島市で三宅病院創立。33才でドイツに留学、ミクリッツ教授に師事。胆石症の研究により一躍世界的な医学者となる。

帰国後、35才で大阪府立医学校(現阪大)の付属医院外科医長、続いて福岡医科大学(現九州大学)に赴任、ドイツ留学。38才で福岡医科大学教授。1910(明治43)年、九州帝国大学初代外科部長に就任。指導者としても信望が厚く、名実ともに内臓外科の名手と絶賛された。

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1936(昭和11)年ドイツ外科学会国外会員、1943(昭和18)年には、日本外科学会名誉会頭に推挙されるなど、日本における外科学の開拓者として活躍し、1945(昭和20)年米軍空襲により、岡山県において没す。(享年80才) 

1922(大正11)年(56才)、欧米視察旅行から帰途の船中、ドイツの理論物理学者アインシュタイン博士の急病を治療するという奇縁からお互いに親交があり、三宅先生夫妻の戦争による死を悼んで、自筆の哀悼文が寄せられた。

穴吹町舞中島光泉寺境内のアインシュタイン友情の碑に碑文が刻まれている。 (右写真:欧米視察旅行から帰途の船中 アインシュタインと三宅医博)

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▲三宅博士を悼む・・・アインシュタイン友情の碑

墓碑正面
Hier ruhen Dr.Hayari Myake und dessen Frau Miho Myake.

Sie wirkten vereint fur das Wohl der Menschen und schieden vereint als Opfer von deren Verirrungen.

Albert Einstein
ここには三宅博士とみほ夫人が眠っている。

ふたりはともに人の世のしあわせのために働き、そして世の恐ろしい迷いの犠牲となってともに亡くなった。

アルベルト  アインシュタイン

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光泉寺

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徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島1443


③ アインシュタインと関門海峡