阿久遺跡は縄文時代前期の遺跡で、環状列石の原始の形態らしい環状集石があった。そして、同族集団が各地から集まって共同祭祀が行われたと推定されている(参考)。
実は、この遺跡は太陽観測施設である岩屋岩蔭遺跡と筑波山を結ぶ線上にあり、さらに大湯環状列石などの経度観測施設とも繋がりがあった。
すなわち、この阿久遺跡は日本列島の聖なるラインのネットワーク(ある種の測地網)の原点だったとも考えられる。
① 赤丸: 阿久遺跡(環状集石)
② 黄丸: 大湯環状列石、釜石環状列石、伊勢堂岱遺跡
③ 緑丸: 岩屋岩蔭遺跡(太陽観測の巨石群)
④ 青丸: 筑波山(巨石群)
⑤ 東西赤線: 北緯34度14分
参考
(参考)
阿久遺跡、長野県諏訪郡原村阿久遺跡(あきゅういせき、wik iより)
・前期初頭には30軒の住居と8基の方形柱列がつくられた。
・前期末葉には丘陵中央に大環状集石群が構築された。
この環状集石群の規模は長径120メートル、短径90メートル、幅30メートルで、約20万個のこぶし大から人頭大の河原石をドーナッツ状に配するものである。ドーナッツ状リングの中央に立石構造があり大小24個の板状の角柱石(安山岩)と半径1メートルの円形に8個の平石が囲んでいて、その周りに人骨を埋葬したと思われる竪穴と河原石を直径2-3メートルの円形に積んだ集石遺構が多数取り巻いている。約700基余りの土壙墓があると推定されている。さらに、この集石墓から約50-100メートル程離れたところに、ほぼ同じ時期の竪穴住居址が南と東に分かれ、それぞれひとまとまりになって分布している。これらの立石・集石群は、中央の立石からドーナツ状の集石群の間を通して蓼科山を拝望できるように作られた祭祀場であったと考えられている。
これだけの大遺跡が一つの集落だけで造ったものでなく、この地域に存在する集落群(村落)の労働力を集中して造られたと推測できる。このように縄文社会は、村落をあげての共同労働や共同作業を管理運営組織が存在した社会であったと想像するに難くない。