初代大仏の甲賀寺跡(紫香楽宮跡) | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

奈良の都より離れ、山の中の信楽の山中に離宮、紫香楽宮を作ったり、この地に大仏を建造しようとしたりした。不思議でならなかった。

実はこの地、特に大仏を建造しようとした甲賀寺は神聖な地であった。すなわち、奈良の現在の東大寺や春日大社のある地点と岐阜県下呂市の縄文時代の太陽観測施設、岩屋岩蔭遺跡を結ぶ聖なるラインと伊勢神宮と籠神社を結ぶ聖なるラインの交点であり、まことにめでたい地点であった。

実際には色々な問題点を乗り越えて、同様に聖なる比叡山、東大寺、箸墓古墳、天河大弁財天社を結ぶ南北線と交わる現在地、東大寺大仏殿の位置に大仏を建造したことになる。

{1647A5E3-0A57-4F9E-9264-58B052C2F8D6}
甲賀寺跡(紫香楽宮は誤り)

{9FCB0C71-2674-4F5E-B0FB-A0365E8177BF}

{330F085D-7765-4F67-A0ED-33CD8B1C60CA}

{92F76B82-E7EC-4EBD-B94C-E456BA60F54C}
甲賀寺跡(紫香楽宮は誤り)、滋賀県甲賀市信楽町黄瀬

{A125DC35-2337-4A69-A576-446905DC7A95}

① 赤丸: 甲賀寺跡(紫香楽宮は誤り)
② 黄丸: 伊勢神宮
③ 白丸: 元伊勢、籠神社
④ 青丸: 東大寺
⑤ 緑丸: 岩屋岩蔭遺跡、縄文時代の太陽観測施設


注:

大仏のお身体の銅は山口県の長登銅山から採取したが、この地は天河大弁財天社と同緯度の北緯34度14分(秦の始皇帝の咸陽宮)と、山口県豊北町土井ヶ浜と斉国臨淄を結ぶ線の交点であった。

{379F2676-B067-4ACB-AFA6-6F07E0A73682}
黒丸が長登銅山


参考

① 紫香楽宮の歴史(参考)

紫香楽宮は、今からおよそ1,250年前の奈良時代中頃、
滋賀県甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。

天皇は奈良の都(平城京)で政治を行なっていましたが、天平12(740)年10月末に奈良の都を離れ、年末には奈良の北(今の京都府木津川市加茂町)とその周辺に新しい都を造り始めました。この都が恭仁京です。恭仁京の建設が進められている間、恭仁京から甲賀郡紫香楽村に通じる道(恭仁東北道)が開通し、天皇は紫香楽村に離宮を造り始めました。
天皇は、天平14(742)年8月~9月、同年12月~翌15年正月、15年4月、同年7月~11月初め、というように、この離宮へたびたび出かけ(行幸)、離宮の建設を励ましています。離宮というのは都とは異なり、天皇が保養などのため一時的に滞在する宮殿的施設で、紫香楽宮は離宮として造られ始めたのです。

このように、一方では恭仁京を造りながら、同時にもう一つの離宮・紫香楽宮の建設を進めたものですから、国家財政はたまりません。天平15(743)年の年末には、遂に、それまで足掛け4年間続いてきた恭仁京の建設事業が停止されることになりました。明けて天平16(744)年になると、朝廷では難波宮を都にする準備を進め、早くも2月末には正式に難波を都と宣言しました。

ところが、紫香楽宮の建設は引き続き進められていたのです。天平15(743)年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手します。そして天平16(744)年11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱(中心柱)を建てる儀式が行なわれ、太上天皇(前天皇)も難波宮から紫香楽宮へ到着するなど、紫香楽は活気に満ちていきました。
その勢いが持ち越された天平17(745)年正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てるのが習わしの大きな楯と槍が立てられました。ようやく、紫香楽宮は正式な都になったのです。

しかし、4月になると、紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こりました。火災がおさまると、今度は美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震が相次ぎました。これらが原因となって、5月には早くも都が奈良(平城京)へもどってしまいました。紫香楽宮は、このように数年間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と都が移り変わった時期に、極く短期間ですが光を放って存在した都であったのです。


② 甲賀寺跡と紫香楽宮跡(wik iより)

聖武天皇天平17年(745年)遷都した紫香楽宮(しがらきのみや(の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定された。しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなった。

黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態は良好であり、礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられる。当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑いない。

{AFEBE3E7-6125-4273-9BB5-A2C231C23D42}
下の紫香楽宮跡が実は甲賀寺跡、北の宮町の遺跡が紫香楽宮