三嶋大社あたりが天体観測の拠点だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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江戸時代まで太陽太陰暦の暦は、三島暦(みしまこよみ)を使っていた。奈良時代、わざわざ三島に移住して、三嶋大社から暦を発行した歴史があった。

この地は後期旧石器時代あたりからの天体観測の拠点であり、この地に来ないと観測データを得ることが出来なかったのであろう。

ちなみに、神津島と三島あたりは後期旧石器時代から海人族(海の民)の活躍の場であり、天体を頼りにした航海術(スターナビゲーション)のノウハウが蓄積されていたと考えられる。

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黄丸: 岩屋岩蔭遺跡(縄文時代の太陽観測施設)、青丸: 筑波山、赤丸: 高天原山、白丸: 三嶋大社、黒丸: 神津島、横赤線: 北緯34度14分


参考

① 三嶋大社(wikiより)

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創建は不詳。後述のように『延喜式神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡治承4年(1180年)の記事からである。

現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島)、のち賀茂郡大社郷白浜(古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。

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三嶋大社の境内の主軸が神津島と高天原山を結ぶ線と一致


② 三島暦(みしまごよみ、wikiより)

応仁文明(室町時代)頃から1872年(明治5年)まで伊豆の有力者である河合家が作成して、三嶋大社より一般に頒布されたである。

奈良時代
宝亀年間頃に、奈良から河合家の先祖が山城賀茂より三島明神(現、三嶋大社)を勧請して、三島に移住し、を作り始める。鎌倉時代まで関八州で用いられた

江戸時代
毎年12月15日に江戸城本丸西丸寺社奉行に三島暦を献納後、相模伊豆の2ヶ国で一般に頒布した。京都陰陽頭の土御門家は使者を三島宿に派遣し、京都の暦と交換していた。(当時の暦の作成は伊勢京都奈良会津・三島の5ヶ所。)
三島の「御暦師」の河合家の庭の一角に、暦算のために天文台が造られた。

明治時代
1872年(明治5年)に暦法が改正され、太陽暦に基づいた伊勢暦が作られ、各種の私暦は禁止された。伊勢・京都・奈良・会津・三島の5ヶ所の暦師は東京で弘暦社を組織し、政府に1万円の版権料を納めた。前年の1871年(明治4年)に政府が伊勢神宮の神宮大麻を地方官を通して全国700万戸に1個2銭での強制配布を決めたのに伴い、弘暦社は同時に暦の頒布を行った。しかしこの事業は2~3年で挫折し、暦は神宮司庁で発行・頒布することになった。

平成時代
五十代続いた暦師を廃業した河合家は、当該屋敷を三島市に寄贈したため、平成17年4月より「三嶋暦師の館」として一般公開を始める。


③ 後期旧石器時代の黒曜石の産地と流通(参考)

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④ 筑波山と縄文時代の岩屋岩蔭遺跡による天体観測