宮内庁が治定した斉明天皇陵に対し、やや離れた牽牛子塚古墳を考古学的に真の斉明天皇陵であると考えられるようになって来ている。
日本書紀の解釈では前者の斉明天皇陵が越智崗上陵としてもっともらしく、後者の牽牛子塚古墳は当時の天皇陵としてふさわしい八角墳に孫を合葬する為に二つの石室がある。また共に近くに大田皇女の陵墓らしき古墳があり、共に有力な根拠を持っていることになる。
著者は前者の斉明天皇陵がキトラ線の直下にあり、八角墳でなくても真の天皇陵としてふさわしいと考えている。
赤丸: 斉明天皇陵、越智崗上陵、青丸: 牽牛子塚古墳、赤線: キトラ線(宮の平遺跡、宮滝遺跡、応神天皇陵などを結ぶ直線)
雑談
赤線: 宮滝遺跡を上にしたキトラ線、赤丸: 斉明天皇陵、青丸: 牽牛子塚古墳 (3D表示)
キトラ線の線上の適当な位置を探す為に牛車(測定車)みたいなものを走行させたと考えられないか!?そもそも4人もの皇族を近くにまとめて埋葬する陵墓は特に神聖な場所にあるべきで、慎重に探したことは当然考えられる。
参考
『日本書紀』は天智称制6年(667)の陰暦2月27日、「斉明天皇と娘の間人皇女を小市崗上陵に合葬し、同じ日、孫の大田皇女を陵の前の墓に葬った」と記す。
実を言うと、同じ日もう一人遺骸が改葬された皇子がいる。中大兄皇子と遠智娘の間に生まれた建王である。大田皇女にとっては実の弟であり、斉明天皇から見れば皇孫にあたる皇子である。その建王は、生まれつき口がきけないという障害を持っていたため、祖母の建王への愛情はひとしお深かった。しかし、斉明4年(658)5月、皇子は8歳というあどけなさを残したまま黄泉の国へ旅立ってしまう。皇子の殯宮は今来谷のほとりで営まれたが、そのとき女帝は慟哭し別れを惜しみ、群臣たちに対して、「吾が死んだら、死後は二人を必ず合葬するように」と遺言している。
その斉明天皇と間人皇女、大田皇女、そして建王の遺骸を埋葬した墓が、高取町車木にある。そもそも車木という地名は、斉明天皇葬送の霊柩車が来て止まったところ、すなわち車来であったとする地名起源説話すらある。『日本書紀』は斉明天皇陵を小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)と呼んでいる。現在は小市岡を越智崗と表記する。
『日本書紀』は、天智天皇6年2月27日に「斉明天皇と間人皇女とを小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した」と明記している。さらに、文武天皇3年(699)にもこの山陵は修復されていて、『日本書紀』が編纂された720年の時点で所在不明だったことはない。したがって、書紀の記述を信用すれば、その所在は高取町の越智丘陵でなければならない。
斉明天皇陵(越智崗上陵)と大田皇女陵
だが、最近、斉明天皇陵と考えられている牽牛子塚古墳は、そこから北東へ2.5kmも離れた真弓丘陵に築かれている。
さらに『日本書紀』は、その同じ日に皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬ったと伝えている。そうであれば、牽牛子塚古墳の前面に別の古墳が存在していなければならない。車木ケンノウ古墳を斉明陵として管理している宮内庁は、その南約80メートルの墳土を大田皇女墓と指定している。だが、マスコミ各紙の記事を読んだかぎりでは、牽牛子塚古墳の前にそうした古墳の存在を伺わせる記述は一行もなかった。
ところが、明日香村教委がその年の12月9日に行なった記者発表で、そうした疑念も吹き飛んだ。牽牛子塚古墳の隣接地で、牽牛子塚古墳とほぼ同時代に造られた未知の古墳が見つかったというのだ。場所は牽牛子塚の南東側20m地点で、見つかったのは埋葬施設の横口式石槨である。文献上も地表面の痕跡からも全く知られていない古墳で、村教委は地名か「越塚御門古墳」と名付けた。 越塚御門古墳の出現で、牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であることが確定したようなものだ。
だが、『日本書紀』の編者が越智丘陵を真弓丘陵と取り違えたのかは、相変わらず疑問として残っている。文武天皇3年(699)の山陵修復が事実ならば、編者にとって現代史の一部である。天皇陵の所在を誤記するとは思えないのだが、それを解明するには、宮内庁が斉明天皇陵として管理している越智崗上陵の発掘調査する必要がある。だが、容易に実現するとは思えない。
② 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん、wikiより)
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている。斉明天皇(皇極天皇)と娘の間人皇女(孝徳天皇の皇后)の合葬墓とする説があった。
注: 幼くして亡くなった孫の建王を含め3つの独立した墓室では無いのか?