薩摩藩伏見屋敷、京都市伏見区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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薩摩藩伏見屋敷

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中央左上、薩摩藩伏見屋敷、京都市伏見区東堺町483


参考

① 薩摩藩伏見屋敷の絵図発見    寺田屋事件で龍馬かくまう

共同通信(2017/6/3 18:12、参考)

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発見された「薩摩藩伏見屋敷」の絵図(城南宮提供)(東西南北に回転)

幕末の志士坂本龍馬が寺田屋事件(1866年)で幕府側に襲撃された後、かくまわれた「薩摩藩伏見屋敷」の絵図が見つかり、京都市伏見区の神社「城南宮」が3日、発表した。屋敷は寺田屋の約1キロ北の伏見区東堺町にあったが、敷地の広さや建物の配置、間取りなどが初めて明らかになった。

調査した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「歴史が動いた舞台の詳細が分かる貴重な資料」と評価する。「龍馬は屋敷の北東、管理者がいた部屋の周辺に担ぎ込まれたのではないか」と推測。当時、幕府側が龍馬を引き渡せと迫ったが、薩摩藩が拒否、両者の亀裂が決定的になった事件という。


② 薩摩藩伏見屋敷の位置(伏見城研究会、FB友達、若林正博氏より)

薩摩藩伏見屋敷は鳥羽伏見の戦いで焼失している。焼失については「かわら版」の左上の赤い四角

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鳥羽伏見の戦いで会津白井隊の襲撃により焼失した薩摩藩邸の図面が発見されました。地元(伏見)的には世紀の大発見といえるほどです。(FB友達、若林正博氏談)