コリントス運河、ギリシャ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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工事当時


参考

① 絶壁の間で「空中ダンス」、ギリシャ

AFPBB news(2017.5.31、参考)

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ギリシャのコリントス運河で「空中ダンス」を披露するダンサーのカテリーナ・ソルダトウさん(2017年5月30日撮影)。

【AFP=時事】ギリシャの振付師でダンサーのカテリーナ・ソルダトウさんが30日、同国コリントス郊外にある、まるで絶壁に挟まれたようなコリントス運河に架かる橋からぶら下がり、「空中ダンス」を披露した。【翻訳編集】AFPBB News


② コリントス運河(wikiより)

コリントス運河は、閘門を持たない水位が一定の運河で、コリントス地峡の丘を一直線に縦断して掘られている。全長6343m、運河の幅は水面部で24.6m、河底部で21m、深さは8m、運河の途中に鉄道橋と道路橋があり桁下は52mとなっている。丘の高いところでは標高約79mほどもあり、丘の区間では両側に高く切り立った崖がせまる細い水路を船が通過する。鉄道橋があるところでは標高60m のところに開口部に長さ約33mほどの鉄橋がかかっている。大きな船はタグボートに曳航されて水路を通る。

この運河の開通で、従来のペロポネソス半島を大きく迂回するルートに比べて航路が400kmあまり短縮された。しかし、幅が狭いため大型貨物船の通航はできず、現在では主に観光船の通航に利用されている。年間11,000隻あまりの船がこの運河を往来する。

コリントス地峡に運河を掘る考えは古くからあり、古代ギリシア時代、紀元前7世紀末頃のコリントスの統治者ペリアンドロスもその1人だった。その後も幾度か運河開削の構想がおこっていた。紀元前3世紀ごろ、マケドニアデメトリオス1世ポリオルケテスが建設を試み挫折している。古代ローマ時代にもカエサルカリグラ帝も関心をもった。

ネロ帝の時代になると、実際に大規模な開削が試みられた。67年にネロ帝は6000人の奴隷を動員して運河の開削を行い、3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺、彼の死後、帝位についたガルバ帝によって工事は中断された。ネロの時代に計画された運河は現在のコリントス運河があるルートと同じところにあり、古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。

時代が下って、1869年エジプトスエズ運河が開通すると、これに触発されてギリシアでもコリントス運河建設の機運が高まった。1869年に運河建設のための法律が整備されフランスと工事を契約した。その後、しばらく工事が行われないまま時間が過ぎたが、1881年ハンガリーの Stefan Tyrr らに事業が引き継がれ、1882年4月に本格的に工事がはじまった。途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難も起こったが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけ、同年7月25日に開通式が行われた。

コリントス地峡の岩盤はもろいため岩盤が崩落することもあり、大規模な崩落で復旧のため運河が長い間閉鎖されることもあった。また、第二次世界大戦中にはドイツ軍が運河を利用するのを阻止するため、1944年には意図的に運河を破壊せざるを得ないこともあった。この復旧には5年あまりかかった。