国登録形文化財、富貴楼、長崎市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

素晴らしい料亭が存亡の危機にある。どうにか続いて欲しい。

唯一の欠点は自家用車で直接に到着出来ない。観光地の集中地から離れている。どこか駐車場を用意して人力車で往復するとか、工夫が要る。

{D1DE72A9-1E32-4CBE-9BF3-722DE0817F92}

{5491FBEA-541F-4368-A96A-C34865D69990}

{3AE63F2F-D119-4BA5-8EC4-B4D276CEE730}

{D6F42F88-7E6B-4A2A-9197-1AD9A8F17CA5}

{55D53604-3A57-4B40-ADC5-DB089DEB37F5}
中央右上の緑印、他の黄色印が有名観光地

{38D83256-2B89-4DA6-A836-C035B6B1B743}

{075EB59C-9AD8-4528-AEEC-E6F14F9CF446}

{D5C5AB3A-6027-4B97-921D-C6CF125DE75D}

{40230EF3-07E9-42FC-9957-7CC499892C3F}

{1923211A-1ED1-4EF1-BC66-F4C7833214E9}


参考

① 老舗料亭「富貴楼」休業へ

長崎新聞(2017.4.20、参考)

{43D041BD-4687-46F1-AC0F-A707DBB012E4}

長崎市上西山町の老舗料亭で国登録有形文化財の「富貴(ふうき)楼」が6月10日で休業することが19日、分かった。6代目・内田一さん(69)の跡継ぎがいないのに加え、従業員も高齢化し人手確保が困難となっているのが主な要因。ブライダルやレジャー系など複数の企業が買い取りに関心を示しているが、活用法は未定で再開のめども立っていないという。

富貴楼は木造3階建て、延べ床面積は740平方メートル。約100畳の大広間や大・小八つの部屋がある。江戸時代の1655年ごろに創業した料亭が前身。1887(明治20)年に初代・内田トミさんが経営を引き継いだ。その2年後に訪れた初代首相の伊藤博文が、初代の名前トミさんと、敷地内で栽培されていたボタンの花の高貴さから現在の屋号を命名した。

長崎名物の卓袱(しっぽく)料理が有名で、来崎した皇族が料亭を訪れたこともある。1969年の長崎国体時は皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)に昼食を出前で提供した。

94年に先代から経営を引き継いだ内田一さんは「跡継ぎがおらず、以前から自分の代で最後と考えていた。休業は仕方ない」と話す。2006年の台風で建物の一部が被害を受け廃業を考えたが、継続を求める周囲の声を受け営業を続けた。

一方、90年代初頭のバブル経済崩壊やその後の景気の低迷などから近年の売り上げはピーク時の10分の1ほど。休業は「経営の問題ではない」(内田さん)が、将来の建物の維持管理費を懸念。約10人の従業員は高齢化し、後任を確保できない状況も続いていた。

明治時代の料亭建築の特徴が残り、07年に国登録有形文化財となった。料亭が今後、残されるか取り壊されるかは「買い手次第」(内田さん)だが、県学芸文化課は「文化財の価値を残す活用を検討してほしい」としている
 

② 略歴(参考)

創業  明暦元年(1655)頃  大正十五年二月十三日の大阪朝日新聞に「富貴樓は長崎における料理屋の草別として三百年の歴史を誇った千秋亭の後身で、明治二十年内田氏の経営に移るとともに現在の屋號に改められた、同樓では有栖川宮、伏見宮、閑院宮、久邇若宮各殿下を始め奉り、獨ハンヂン親王、露太公その他伊藤博文公など明治の元勲、現在の各大官等に長崎式曾席を味はってもらったことを誇りとしている。」とある。

前身は千秋亭、代々吉田屋を名乗り、明暦(1655)の頃には長崎松の森に料亭吉田屋を営む。寛文五年(1665)吉田屋嘉一生まれる。延宝八年(1680)嘉一は吉田屋を拡充し「千秋亭」を興し自ら初代を名乗り道甫と号していた。寛保元年(1741)嘉一没行年七十七才。寛政(1799~1801)には「崎陽松の森千秋亭」で有名。大田南畝(蜀山人)は自署「瓊浦雑綴」に、当亭の料理献立を記載している。又、俳人紫暁の日記に「千秋亭に到り終日和漢の珍味に飽り」「四方眺め比類なし」とある。以後千秋亭と吉田屋は屋号を併称して営業する。幕末には岩崎弥太郎や才谷梅太郎ら多くの幕末の志士達も来亭したと云われている。

富貴楼の大通り(下西山通り)側の石垣は元禄(1688)初期のものと云われ、造りは「はね出し」又「武者返し」(別名「忍者返し」)と云われ築城などに用いられていた。上部を天端(てんぱ)と云う。

江戸時代 料亭「千秋亭」又は「吉田屋」と屋号を併称して営業。

慶応二年八月十一日(1866)  後藤象二郎(土佐藩)が異人(グラバー)を千秋亭吉田屋で接待する。(この宴会の総額は現在の金額で80~100万円位) 後藤象二郎が如何に太っ腹か、後を任された岩崎弥太郎は大変だっただろう。

大田南畝(蜀山人)が「彦山の端より出ずる月はよか、こんげん月はえっとなかばい」とうたい「崎陽松の森千秋亭」として有名となる。

明治二十年二月二十日(1887)  吉田重吉は姪に当たる内田トミに経営を託し、屋号を「富士亭」と改
め継承る。内田榮四郎はトミが千秋亭を継承と同時に家名を相続する。

明治二十二年二月(1889)  ときの内閣総理大臣伊藤博文公来亭の折、「何かよい名前を付けて下さい」とトミが頼むと、「女将の名前は何という、ああ、トミか、それではこれがよかろう」と示されたのが「富貴樓」。当時、富士亭では牡丹花を栽培していて、長崎の名物になっていた。その高貴な姿と女将の名前を結びつけたものであろう。 

明治四十年十一月(1907)  閑院の宮妃知恵子親王殿下、当亭へお成り遊ばされた折、新築した仮室の材料を以て、記念して広間を造る。当亭の広間の床柱は山南天と言い伝えられて、豊後蘇母山より出たるものとの事。

明治四十二年九月(1909)  初代 内田トミ死去。

明治末頃  榮四郎の三男耀一郎 上海六三亭(白石家)の婿養子となる。その関係で中国の「呉昌碩」「王一亭」らと交友を深める。

大正六年(1917)頃  芸子「愛八」新二階の部屋にて土俵入りを披露(海軍中将鈴木貫太郎閣下の歓迎会の宴席にて)

大正十年(1921)  久留米にて陸軍大演習が大正天皇ご観覧のもと行われし折、榮四郎・洪冶が久留米迄出向き大正天皇のご食事の調理を仰せつかり長崎料理を献上する。それを機会に宮内省とのご縁が出来る。当時、榮四郎は屋号にちなみ、牡丹花を盛んに栽培し、文人墨客がこの花園を観賞するのに「牡丹会」という催しを開き、市民一般にも開放した時代があった。「牡丹会」は宮内省の高官の方から陛下のお耳にも入り、天皇・皇后両陛下より牡丹の苗を頂戴致し、その他各宮家の皇族方から毎年苗を送って頂くようになる。「牡丹会」は昭和十五年、人手も無くなり内田ナツ一人ではどうにも出来ず中止する。

戦後も何かとさしさわりあり牡丹花の栽培せず ・・・・ 残念

以下省略