共立講堂 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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かつて、共立女子大の施設、共立講堂からのテレビ放送があったのを記憶している。

この辺りには、共立女子大、学士会館、国立情報学研究所、如水会館などがある。特に、国立情報学研究所の土地は一橋大学の前身「東京高等商業学校」の地であった。

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共立講堂

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左: 学士会館、右: 共立講堂

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千代田区一ツ橋2-2-1


参考

① <あのころ>「のど自慢」初の全国大会 副賞はラジオ

共同通信(2017.3.21、参考)

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1948(昭和23)年3月21日、NHK「のど自慢全国コンクール優勝大会」が東京・神田の共立講堂で開かれた。2年前から各地で始まった「のど自慢」で、ふるいに掛けられた代表は26人。独唱、歌謡曲、俗曲の3部門で競い、優勝者には金一封とラジオなど数万円相当の副賞が贈られた。


② 共立講堂、千代田区景観まちづくり重要物件(参考)

昭和13年(1938年)3月20日落成。構造設計は、東京タワーの設計者としても知られる内藤多仲博士、また意匠設計は前田健二郎氏。外観は縦型の付け柱によるゴシック調にデザインされ、また屋根の形状は切妻型で、当時としては大変モダンな意匠となっています。当時、規模・設備においても日比谷公会堂と並ぶ大講堂で、他に比類する講堂はありませんでした。外部使用を認めたことから、「日本の文化の殿堂」としての役割を果たすようになりました。戦後はこのような大講堂が都内にも少なく、音楽関係の公演のメッカとして知れわたりました。ここを足場として巣立っていった演奏家たちも少なくありません。ラジオ・テレビのスイッチを入れれば必ず共立講堂からの中継が流れ、共立講堂の名は全国に知れ渡りました。

昭和31年内部を全焼。翌32年(1957)に落成を迎えました。再建には文化的ホールとして、音響および照明に充分な工夫がなされました。中でも音響については、日本フィルハーモニー交響楽団指揮者の渡辺暁雄氏の指導を受けました。

その後、関係法令の改正や社会環境の変化にともない貸しホールとしての使用を終了いたしました。

火災後、構造体はそのまま残りましたが、内部および外部の一部が損傷したため、屋根は丸型の連続ボールドに架け替えられ、外装タイルも張替えられました。近年、外壁の痛みが激しくなってきたため、平成19年(2007年)に、外壁タイルの張替工事 を行いました。施工にあたっては、昭和13年(1938)に建てられた当時の様子にできるだけ近い状態となるように配慮されました。


③ 共立講堂(参考)

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共立講堂(昭和13年落成)