児島湾干拓の今昔 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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平成29年現在の児島湾干拓地(岡山市南区浦安地区)と児島湖

1950年(昭和25年)に児島湾を締め切って淡水湖にするための工事がスタートし、1956年(昭和31年)の締切によって児島湾締切堤防と児島湖が誕生した。

1899年(明治32年)の干拓事業の着手は山口県出身の藤田伝三郎が行なった。1937年(昭和12年)から入植が開始され、今年が80年目となる。


参考

① 児島湾
干拓後世に伝えるパネル展 入植80年 地域の生い立ち紹介

山陽新聞(2017.2.19、参考)

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浦安地区の歴史を地図や写真などで紹介するパネル展(右上に藤田伝三郎の写真)

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1901(明治34)年当時の地形を伝える地図

児島湾干拓で造成された岡山市南区浦安地区の歴史を紹介するパネル展が、南公民館(同芳泉)で開かれている。入植から80年の節目を迎える地域の“生い立ち”を伝えようと、住民有志が初めて企画した。 

児島湾干拓は、1899年から実業家藤田伝三郎(1841~1912年)が本格的に着手。予定された計8区(約5500ヘクタール)のうち浦安地区は3、5区(計1210ヘクタール)に当たる。35年に潮止め工事が完了すると、翌36年に稲作の試験、37年に入植が始まった。 

パネル展を企画したのは、昨年4月に発足した住民グループ「地域研究会」(5人)。地域の歴史などを顕彰する有志の集まりで、「先人の苦労を知り、古里への思いを深めてほしい」と浦安地区の展示を計画した。 

メンバーは入植間もない頃を知る70、80代の地元住民に子どもの頃の様子を聞き取るなど情報収集。同地区内を巡って、排水用の樋門(ひもん)や記念碑を撮影するなど、約9カ月かけて準備を進めた。 

会場には命名▽思いでばなし▽明治時代の地図―など、七つのテーマに分けて地図や写真、新聞記事など計約110点を展示。同地区が海だった1901(明治34)年当時の地形を伝える地図のほか、昭和初期の農機具の写真、59年に浦安小学校(同浦安本町)が開校したことを報じる新聞記事などが並ぶ。 

「命名」のコーナーでは、浦安の地名に「浦(土地)が安らか」に栄えるようにとの思いが込められていることや、阿部池(同築港緑町)は大正時代、干拓事業の争いを調停した裁判所評定官・阿部文治郎にちなんでいることなどを紹介。「思いでばなし」では、塩害で農作物の収穫まで数年かかったという証言も掲示している。 

同地区で半世紀以上暮らす阿部節子さん(82)=南区=は「池の名前の由来など知らないことも多く、あらためて地域のことが分かった」と話していた。 

同会代表の荒木篤文さん(68)=南区=は「地域の協力で多くの資料が集まった。展示をきっかけに歴史を見つめ直し、次世代へつないでいってほしい」としている。 

展示は25日まで。午前9時半~午後9時(最終日は正午)。水曜休館。問い合わせは同公民館(086―263―7919)。


② 児島湾締切堤防と児島湖(参考)

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岡山平野は、昔幾つかの大小の島々が点在する一面の浅海でしたが、河川によって運ばれた土や砂が溜まり、さらに人間の手により幾多の干拓が進められ、急速に陸地化していきました。

そして、明治以降に干拓された地域では、陸地の高低差がほとんどなく、水不足、塩害、浸水などの問題が深刻でした。

この問題を解決すべく、昭和25年に児島湾を締め切って淡水湖にするための工事がスタートし、昭和31年の締切によって児島湾締切堤防と児島湖が誕生しました。

児島湖は、児島湾の中ほどを延長1,558mの巨大な児島湾締切堤防で囲うことで築かれた淡水湖であり、このことにより、地域の長年に及ぶ深刻な水問題は一挙に解決を見ました。さらに、高潮による塩害や津波の心配等の問題からも解放されました。

干拓による農地造成と児島湖の造成による用水確保によって、現在では、この地域は県下最大の農業基地として営農の先導的役割を果たしています。


③ 干拓の歴史(参考)

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