泰泰緬鉄道、タイランド | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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The River Kwai Bridge(戦場にかける橋)

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The River Kwai Bridge(戦場にかける橋)、Kanchanaburi(カーンチャナブリ)

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Ban Nuea, Amphoe Mueang Kanchanaburi, Chang Wat Kanchanaburi 71000, タイランド

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Kanchanaburi(カーンチャナブリ)、タイランド


参考

① 泰緬鉄道

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(参考)

泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、第二次世界大戦中にタイビルマ(ミャンマー)を結んでいた鉄道。旧日本陸軍によって建設・運行されたが、戦後連合国軍によって部分的に撤去され、現在はナムトックサイヨークノイ停車場で途切れている。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は「Thai-Burma Railway(またはBurma Railway)」だが、大量の死者を出した過酷な建設労働から英語圏ではむしろ「死の鉄道(Death Railway)」の名で知られる。存置部分は、タイ国有鉄道南本線ナムトック支線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」や「タム・クラセー桟道橋(アルヒル桟道橋)」など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている(wikiより)。


② 数万人が犠牲、「死の鉄道」建設労働者らの慰霊祭 タイ

朝日新聞(2019.2.11、参考)

第2次世界大戦中、タイとミャンマー(旧ビルマ)を結ぶ「泰緬鉄道」の建設に従事し、亡くなった連合軍捕虜や現地労働者の慰霊祭が10日、タイ西部カンチャナブリで開かれた。タイ日本人会の主催で、戦時中に旧日本軍が犠牲者の慰霊碑を建ててから75周年の今年は約60人が参加した。

泰緬鉄道は、旧日本軍が陸上輸送路を確保するための全長415キロの路線。建設期間が1年あまりの過酷な労働環境で、捕虜や現地の労働者数万人が犠牲になったとされ、「死の鉄道」とも呼ばれている。

終戦直前の1944年に旧日本軍が、鉄道の拠点となったカンチャナブリに労働者の慰霊碑を建立。戦後、日本人会が碑の存在を知り、63年から毎年、慰霊祭を開いている。

この日は日本人会会員や大使館関係者、自衛隊員が参加。僧侶の読経に続き、参加者が慰霊碑に向かい、焼香を上げた。同会の島田厚会長は「法要が後世に続くように努力したい」とあいさつした。(カンチャナブリ=染田屋竜太)

慰霊碑の前で焼香をあげる、慰霊祭の参加者=10日、タイ西部カンチャナブリ、染田屋竜太撮影