伊能忠敬と我が郷土 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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我が郷土を正確に描いた最古の地図が伊能図であった。現在とそんなに違わない地形を描いている。

ただし、内陸部の山、川そして集落に関しては大雑把であり、例えば、著者の住む古くからの集落が記されて無い。

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伊能図に於ける我が郷土(安岡、福江、秋根、長府あたり、参考)

このように、恩ある伊能忠敬の生家を訪ねてみた。彼は千葉県の九十九里浜の出身であった。

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千葉県山武郡九十九里町小関

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伊能忠敬記念公園

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参考

伊能忠敬の苦労の生い立ちと九十九里(BEST TIMES、2016.11.5、
参考)

伊能忠敬は延享(えんきょう)2年(1745)、上総国山辺郡小関村に生まれました。現在の山武郡九十九里町小関ちょうど九十九里浜のど真ん中といったところです。生家は小関村の名主の小関家で、父は小関貞恒(さだつね)、忠敬の幼名は三次郎といいました。兄と姉がいる三番目の息子でした。

幼少時は決して恵まれた環境ではなかったそうです。六歳の時に母を亡くし、小関家に婿入りしていた父は離婚され上総国武射(むさ)郡小堤(おんづみ)村の実家に帰りましたが、三治郎はそのまま小関家に残されたといいます。その後三治郎が10歳になった時、父の実家に迎えられ、小堤村で過ごすが、三治郎は17歳の時伊能家に婿入りすることになり、佐原に移ることになります。

九十九里平野の田んぼが広がる一角に千葉県指定史跡「伊能忠敬記念公園」はありました。看板には「たまたま、小関家は漁業を経営していたので小関家納屋番として起居し三次郎苦境の少年時代であった」と書いてあります。

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生地に建つ伊能忠敬像(九十九里町)

忠敬に関する本を見ても、幼少時の記録はほとんどなく、苦しい境遇を生きたという書き方が大半を占めています。公園の一角には測量機の脇で天を指さしている像が建てられています。

その後、伊能忠敬が商人として活躍するも、49歳にして長男に家督を譲り、寛政七年(1795)には江戸深川に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)に弟子入りするのです。さらに寛政12年(1800)から文化13年(1816)に至るまで全国測量を続け、当時における最高精度の日本地図を完成することに大きく貢献したことは周知のことと思います。