紙芝居、ポン菓子、ロバのパン | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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著者の子供時代(昭和30年代初期?)、わが町にも紙芝居のオジさんがやってきていた。著者は水飴など買うお金が無かったので遠くから眺めていたので内容は覚えていないが、懐かしく思い出す。

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昭和20年代前半、紙芝居に見入る子供達(ふるさと下関より)

ボン菓子(コメを圧力釜の中に入れて爆発させる)の業者が来た時は、親から白米を持たされて行って、加工してもらったことを思い出した。さらに、ロバのパンも思い出す。今でも同じ歌を流している移動販売自動車が来るとソワソワして来る。


参考

① 紙芝居の歴史(wikiより)

戦後の街頭紙芝居は1946年(昭和21年)ごろから人気上昇し、GHQ占領時代に最盛期を迎える。しかしその内容が「低劣、俗悪」であり子どもによくないという世論を受けて、自治体が条例や認定制を設け、また業界が自主規制を行ううちに紙芝居はその自由奔放さと輝きを失っていき、その後は1953年(昭和28年)に放送開始した街頭テレビなどにも押されて衰えていった。


② 街頭紙芝居の思い出(参考)

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伊予市上灘の鉄道高架下で行われていた街頭紙芝居を、昭和30(1955)年頃に撮影した写真(井上敬一郎氏提供)です。自転車の荷台に木製の紙芝居の舞台がのっています。その前に集まったたくさんの子どもたち。かなり至近距離から紙芝居にかぶりついて見ている感じです。左側の男の二人は、お菓子を食べていますね。水あめや煎餅などを買って、食べながら見るのが紙芝居の楽しみの一つでもありました。写真を見ると、小さい子どもから、妹か弟をおぶった少し大きな子どもまで、いろいろな年代の子どもがいることがわかります。テレビが普及していない時代、紙芝居はいろいろな年代の子どもを惹きつける娯楽の王様でした。現在、放課後にこれほど学年を超えた子どもたちが集まって遊んでいる姿を見かけることもないのではないでしょうか。


③ ポン菓子(参考)

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昔懐かしいポン菓子は北九州発祥のお菓子。これを作る機械を開発したのが戸畑区にある-タチバナ菓子機の吉村利子さんです。戦時中、子どもに消化の良いものを食べさせたいと-の思いから独学で機械の設計図を作り、20歳の頃に単身大阪から北九州にやってきまし-た。何軒もの鉄工所を回り、ようやく1年後に菓子機は完成。甘いポン菓子は有名になり-、またたく間に全国に広がっていったそうです。


④ ロバのパン(参考)

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