最後の長府藩主ご一家の写真 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治初期(誤り、正しくは中期)、長府毛利家一家、明治3年に下関で第一号の写真館を開いた富田重範が最初に撮った人が毛利元敏だと言われている(ふるさと下関より)。

最後の長府藩主、十四代・毛利元敏は左後ろ三人目、左隣が正室・保子、左端が側室・美濃子、元敏右隣りが長男・元雄、その右隣りが次男・元智、右端が三男・邦樹、右端前が長女・式子か!

前列の左から5人の幼い女子達は、見た目の年齢から、左から次女・亮子、三女・幸子、五女・多栄子、六女・幣子、四女・新歌子か!?七番目の末女の梢子はこの写真に写っていない。

すなわち、この写真は明治25年(1892年)から明治27年(1894年)の間に撮影されたと思われる。すなわち、この写真は、明治3年に下関で第一号の写真館を開業した富田重範の最初のものでは無かった。


参考

① wikiによると

毛利 元敏(もうり もととし、嘉永2年5月3日(1849年6月22日) - 明治41年(1908年)4月2日
)は、長門長府藩の第14代(最後)の藩主。

第12代藩主・毛利元運の六男。母は土屋彦直の娘・欽麗院。同母姉に毛利宗家の長州藩主・毛利元徳の正室・安子がいる。正室は正親町三条実愛の娘(毛利敬親の養女)・保子。側室に美濃子がいる。官位は従二位。幼名は宗五郎。子に毛利元雄乃木希典の養子となった乃木元智毛利邦樹、多栄子(三条公輝室)らがいる。


② 子達(参考)

長男:毛利元雄
   男:毛利元智【乃木元智】
   男:毛利邦樹【福原邦樹】(男爵 福原実の養子)
 女:毛利式子 (男爵 小早川四郎の妻)
 女:毛利亮子 (男爵 徳大寺則麿の妻)
 女:毛利幸子 (中牟田武正の妻)
   女:毛利新歌子 (加藤泰俊の妻)
 女:毛利幣子 (松平翠の妻)
 女:毛利梢子 (武富政彦の妻)


③ 子達その二(参考)

1871-1897 暢子 (夫:子爵 毛利元忠)
1877-1945 元雄
1880-1946 乃木元智
1881-1928 式子 (夫:男爵 小早川四郎)
                     福原邦樹
1887-1989 亮子 (夫:男爵 徳大寺則麿)
1888-1981 幸子 (夫:子爵 中牟田武正)
1890-1964 新歌子 (夫:加藤泰俊)
1891-1918 多栄子 (夫:男爵 三条公輝)
1892-1955 幣子 (夫:永井直翠)
1894-         梢子 (夫:武富政彦)