尊皇攘夷の志士は西洋をよく知っていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長州の尊皇攘夷運動を支援した赤間関の大庄屋の伊藤家や佐甲家は西洋を知り尽くし、元々、外国の賓客を接待する役目を持っていた。

すなわち、長州の尊皇攘夷運動は初めから単純な排外運動では無かった。


参考

① 赤間関の本陣伊藤家と本陣佐甲家について(参考)

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写真:「オランダ商館長御用船下関入湊図」(下関市立歴史博物館蔵)。オランダ商館長たちの船が佐甲家に寄港しようとしているところを描いた絵(部分)

赤間関(あかまがせき。現在の下関市)の豪商・伊藤(いとう)家と佐甲(さこう)家(*6)もシーボルトと交流しています。文政9(1826)年、シーボルトはオランダ商館長に随行して船で江戸へ行く途中、佐甲家に宿泊。伊藤家から晩餐(ばんさん)に招かれ、「金モールのついた赤いビロードの服と金糸で刺繍(ししゅう)したチョッキを着、半ズボンと絹の靴下とスリッパをはき帽子」をかぶった当主に歓待された、と記録に残しています(*7)。赤間関では、そうしたオランダに好意的だった豪商の支援を受けて、シーボルトの塾生たちが蘭方医として診療に従事し、中には百人を超える門人を持つ者もいたといいます。海峡のまちは異国に関心を持つ人々が集まる地でした。

文政11(1828)年に起きたシーボルト事件(*8)は、彼らにも波紋を及ぼしました。佐甲家の当主は関門海峡を案内した罪で一年間の蟄居(ちっきょ)処分に

※6両家は本陣(諸大名などが休泊する公的宿泊機関)なども務めた赤間関の有力者。オランダ商館長などが宿泊する「阿蘭陀(オランダ)宿」でもあった。
※7シーボルトの『江戸参府紀行』による。
※8シーボルトが帰国の際、国禁の地図などの持出しが発覚し、シーボルトは国外追放となり、関係する多くの蘭学者が処罰された事件。


② アーネスト・サトーを外人接待所、西の本陣・佐甲家が接待した(参考)

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本陣佐甲家跡、南部町20-22

外人接待所としてオランダ商館長やシーボルトをもてなした実績がある格式の高い佐甲家本陣(南部町20-22)でアーネスト・サトーを接待したと言う以下の説がある。

伊藤がイギリス軍艦ユーリアラス号の艦上で行われた談判に列席して、正使高杉晋作を援けて和議の成立に活躍したことはよく知られている。半端でも英語が喋れる伊藤と旧知の仲であったアーネスト・サトーの二人が話し合って根回ししたのが効いたか、三回目の正式交渉で和睦が成立した。しかし、和議成立後の馬関での処理がまた大変で、5000人の外国軍水兵たちの食糧補給と対応、300万ドルの賠償金の工面などもあった。総じて敗戦側は卑屈になるものであるが、足軽出身の伊藤も色々と頭を悩ました。友人の田北から借りていた秘蔵の太刀を英艦長にプレゼントしたり、南部町の佐甲本陣にサトーを正式の西洋料理で招いたりした。その材料代の未払い分の処理を村田蔵六(のちの大村益次郎)に頼んだお蔭で、田北の刀の代金も藩から出して貰うことができた。 



③ 外人接待所、西の本陣佐甲家について(参考)