古代の山陽道の本州最西端の臨門駅は前田と定説になっている。これについて検討する。江戸時代の古地図や現況では、現地は門司への渡しとなる港などは全く無い農村であった。
当時の資料や文献などが無いので、仮定として古代から江戸時代まで、大幅な気候変動、地形変形そして技術革新が無いとする。すなわち、①平安時代末に海面上昇があったと言われているが、その前後で現在の海水面に戻っている、②下関市の弥生時代からの遺跡の残存状態から推定して大地震や大災害は無く、大幅な地形変形は無さそう、③船は潮待ち風待ちを行なう帆掛け船や手漕ぎ船が古代からあった、とする。
また源平合戦の最後の戦い、壇ノ浦の合戦の戦場に最も近い場所でもあった。すなわち、前田は早鞆の瀬戸の最狭部に近く、潮流速度が大きく変化することで知られ、この潮流速度の変化が源氏の勝利につながったと考えられている。現地に行って見た感想であるが、海風も結構強く、海峡の最狭部は風速も大きく変化するようだ!
すなわち、海峡の最狭部が渡海の最短コースとして適しているとは限らない!港の条件は① 潮流や海風が安定している、② 船が安心して着岸できる、③ 市街地に近く徒歩で到着できるなどの条件が必要であろう。
やはり、前田は古代から現在まで港であった歴史は無いようだ。つまり、古代山陽道の臨門駅では無い。
沿岸の国道9号線は江戸時代までは無く、右手の火の山山麓に旧山陽道の狭い道があったが、古代にあったか確かでは無い。
参考
① 壇ノ浦の合戦(参考)
前田の目前の海が戦場であった。
② 火の山下潮流信号所の東側の前田あたりで最も潮流が早く、危険である(参考)
③ 壇ノ浦の合戦