赤間神宮、旧阿弥陀寺 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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後鳥羽天皇の勅願寺として安徳天皇の御影堂が建立された。明治の神仏分離で阿弥陀寺と御影堂が官幣大社赤間神宮となり、白石正一郎が二代目宮司(実質初代)となった(参考)。

源平合戦の後、赤間関(現在の下関市)は下関市長府の長門守護館から支配する体制となったが、一宮、住吉神社や阿弥陀寺は天皇直轄の寺社であった(参考)。


参考

浄土宗 聖寿山 阿弥陀寺(参考)

日本西門鎮守八幡宮の神宮寺(明治から赤間神宮)、春帆楼の敷地にあった

由緒

貞観元年(859) 大安寺の行教和尚が創始者となって、浄土宗の阿弥陀寺(時期的に創建時は真言宗)を開いたといわれています。同時に、鎮守社として豊前の宇佐八幡宮から神霊を勧請して、日本西門鎮守八幡宮も建てられた。

その後、平家一門が都から落ち延びる際に京都の伏見稲荷大社勧請して乗船した。壇之浦についてから紅石山にこの紅石稲荷神社を創建した。

寿永4年(1185)の源平壇之浦合戦で敗れ、安徳天皇は亡くなられた。建久2年(1191) 12月14日後鳥羽天皇は、長門国に対して安徳天皇の陵墓に御影堂を建てることを命じ、建礼門院の乳母の娘 少将局が髪を下ろして命阿尼となり、安徳帝の菩提を弔いました。都であった福原宮から安徳帝の十一面観音像、建礼門院の持仏の弥陀三尊、清盛の持仏の弥陀三尊、重盛の持仏の釈迦像などを奉還して本尊として祀った(この時から浄土宗)と伝えられいる。

江戸時代から真言宗に戻り、明治になって阿弥陀寺と御影堂が赤間神宮となった。

注: 日本西門鎮守八幡宮は源平合戦では、甲宗八幡宮共に源氏勝利の印である白旗を揚げたと云う。


② 赤間神宮と阿弥陀寺について(参考)

元「阿弥陀寺」と言う寺が有りました。その寺は慶応4年3月の「神佛分離令」に伴う、明治政府の排佛棄釈によって廃寺となりましたが、今では「阿弥陀寺」と言う町名と、同境内の「安徳天皇阿弥陀寺陵」にその名を偲ぶだけです。寺名が町名になっているのは、全国に彼方此方あります。所謂阿弥陀寺の門前町だったのです。

社の裏の丘は紅石山(ベニシヤマ)。関門海峡を望むこの丘に抱かれています。幕末の頃までは、勅願寺であった「阿弥陀寺」と言う真言宗の寺が有ったのです。

以下「阿弥陀寺」と、「赤間神宮」「春帆楼」の関係をお話しします。

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画の左が寺の庫裏の跡に出来た春汎楼(薄オレンジ色の屋根・元ここには三っの割烹旅館がありました)。この春帆楼の前にある黒い屋根が、日清講和条約(下関条約)が行われた日清講和条約記念館です。:中央の白い塀に囲まれているのは、安徳天皇稜(この位置は御陵だから、昔から位置は変わりません。・寺であった時代は、安徳天皇御影堂;現在は正式名「安徳天皇阿弥陀寺陵」。その上に平家七盛塚。):右には朱塗りの竜宮造りの水天門。赤間神宮は戦災にあい、昭和三十三年に新しく造営られたもの。

阿弥陀寺町の源平の壇ノ浦の戦いで、入水した安徳天皇を祀る。但し安徳天皇は(壇ノ浦で入水されたのではなく、官女の按察局伊勢に守られ、生きて筑後(筑後河畔;今の水天宮総本宮辺り、鷺野原の千寿院という寺院)で皇子を儲け、27歳で崩ぜられたと言う伝説もあるようです。;このことは久留米の水天宮総本社にお参りした時のパンフレットに、そう説明されていました。又『平家物語』に安徳天皇は、実は女帝であったのではないかという疑念を、起こさせるような記述があることをもとにして、浄瑠璃・歌舞伎の「義経千本桜」などでは、女子であったという筋立てを採用しているのだそうです。他に落人となって行ったと言う伝説もあるようです。

これは義経伝説に似ています。義経は衣川で奥州藤原氏の襲撃を受けて、自害したことが史実になっていますが、実は生きのびて東北・北海道から、更に中国大陸に渡ってジンギスカンになったという伝説があることは、衆知のことです。そのことに似ているのでは!?

有名な赤間神宮は、幕末までは阿弥陀寺(勅願寺:真言宗の名刹)だったのです。この阿弥陀寺は、明治になり廃寺になりました。 廃寺のあと(天皇社→赤間宮→赤間神宮)と変遷したのです。今では町名だけが、阿弥陀寺町として残りました。

幕末まで勅願寺(ちょくがんじ)でしたから、明治になり直ぐ否応なく、国家の神仏分離令により直ぐ「天皇社」と改称され、明治8年に「赤間宮」・昭和15年「赤間神宮」と改称し、官幣大社になる経緯があったからです。赤間神宮は、歴史のある古いお宮のように思えますが、以上のような経緯で、新生して歴史はまだ新しいのです。


※勅願寺※とは、(以下数種の資料・事典を総合して)

現当二世(現世と来世)の安楽を祈願したり、特別に帰依した寺院を祈願所といいます。初めは薬師寺や国分寺のように、朝廷の勅命によって建立された官寺に限られていましたが、後に貴族・将軍・大名が祈願のために新たに創建したり、既在の寺院を指定したり、あるいは貴族・僧侶が建立した後に奏上された寺院もこのように呼ばれ、多くの祈願所が生まれました。これら祈願所のうち、天皇の勅令によって玉体安穏・鎮護国家を祈る寺院を御願寺(ごがんじ)・勅願寺といいます。この呼称は鎌倉時代以降、幕府建立の祈願所と区別する意味で起こったもののようです。勅願寺の多くは、天皇宸筆の寺額(勅額)を掲げ、創建した当時、天皇の在世中は「今上皇帝聖躬万歳」などと書かれた。天皇の長寿を祈る位牌を崩御後は、冥福を祈る位牌(霊牌)が祀られます。


③ wikiより

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④ 壇ノ浦漁港(参考)


⑤ 二宮、忌宮神社は源氏側に付いた(参考)


⑥ 安徳天皇阿弥陀寺陵(参考)


⑦ 赤間関と阿弥陀寺あたりの古地図(参考)


⑧ 阿弥陀寺(赤間神宮)下の伊藤家は鎌倉時代初期に朝廷より派遣された国司の代理(目代)であり、一時的にここが長門国府であった(参考)