忌宮神社の数方庭祭では新羅の塵輪が熊襲を煽動して豊浦宮(ここでは長府の忌宮神社あたり)に攻め寄せたとのことであるが、北九州に塵輪の襲来伝説は無い。来るとすれば、北浦海岸に上陸するか関門海峡を通り抜けることになるが、その様な伝説も聞いたことは無い。
① 数方庭祭(参考)
豊浦宮に新羅の塵輪が熊襲を煽動して攻め寄せ皇軍も奮戦しましたが、宮門は破られ武将が相次いで討ち死にしていくさまをご覧になった仲哀天皇は大いに憤らせ給い、御自ら弓矢を執って見事に塵輪を射倒されました。これを見た賊どもは色を失って退散しました。皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振って塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭の起こりと伝えられています。塵輪の首を切ってその場に埋め、上に石をおいたが塵輪の顔が似ていたところから、これを「鬼石」と呼びました。それ以後、出陣、凱旋の時にはこの鬼石の周囲を踊りまわったといわれています。
② 数方庭祭は忌宮神社の特殊神事か?(参考)
◆伝説のリアリティ
長門・石見・出雲・隠岐の国は日本海を挟んで外国に接しており、潜在的には戦場になりえる。「塵輪」の伝説が受け入れられたのには、そうした背景がもたらすリアリティがあったのかもしれない。時代は下るが、日露戦争では日本海海戦の砲撃の音が石見地方でも聞こえたという。
ちなみに、水上論文では筑前・筑後に「塵輪」伝説は見られないとしており、対比が際立っているように思える。また、元寇以前の歴史を取り上げて古さを強調した側面も挙げられると指摘している。
◆(参考)9世紀の石見地方
「日本三代実録」という史書に9世紀頃、石見地方に新羅や渤海の船が漂着したことが記録されている。これらも塵輪伝説のリアリティを支えているかもしれない。