平氏の最後の砦、彦島と大里 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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彦島を除く以北の本州は源氏に占められ、彦島を含む以南の平氏とが、この関門海峡の小瀬戸(現在の下関駅から南の大和町は昭和初期、関門鉄道トンネル開通前に埋め立てた)から早鞆瀬戸を境界にして対峙したことになる。

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下関市彦島と北九州市門司区大里


参考

① 北九州、門司あたりは平氏の知行地たった(参考)

筑前・筑後・豊前・肥後・薩摩・壱岐は平氏の知行国で、清盛は家人をそれらの国に配置しています。薩摩国目代、筑前宗像荘・香椎荘の荘官に家人の平氏の名が残っています。

そして、在地武士の原田種直は平氏と主従関係にありました。種直は筑前国怡土の原田荘が本貫地で、父は筥崎荘乱入の府官種平で、大蔵氏の一族でした。
筑前国山鹿(芦屋町)に居城がある山鹿秀遠(ひでとう)も平氏と主従関係にありました。秀遠は粥田経遠の子で、肥後の菊池氏とも同族でした。

関門海峡の押さえの門司関は大宰府の下にあり、現在の北九州の沿岸、玄界灘沿岸一帯の北部九州の沿岸は平氏の支配下にあり、肥前松浦党も平氏に従っていました。


② 北九州市門司区大里、柳御所(参考)


③ 長門国は平氏の知行国であったが、彦島を除く以北に数万人の源氏軍が駐屯した(参考)。この当時、平氏側の長門国国衙は機能を喪失したと推測される。


④ 源範頼が彦島の周辺を包囲した(参考)