熟田津の場所と斉明天皇の航路 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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万葉集に多く出て来る麻里布と熟田津(にぎたつ)について検討する。

山口県の歴史書「防長風土注進案」③では熊毛郡に麻里布があり、また熟田津であると言い、④も熊毛郡の田布施町に麻里布を比定した。その他、麻里布の候補地は岩国市、防府市にもある。熟田津も四国の道後温泉あたりの港①と考えられており、確定していない。しかし、周防灘の潮流②を検討すると④の田布施町に麻里布があることが最もらしいことが分かった。熟田津については通説の伊予と麻里布のどちらかの一ヶ所とは決め付けずに課題としたい。柿本人麻呂が石見国から京に戻る途中に和田津(にぎたつ)があり⑥、固有名詞では無さそうである。

最近(平成28年3月18日)の研究では、熟田津とは干潟の出来る港のことらしく⑧、あちこち有っても可笑しく無い。

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赤のVが、斉明天皇の熟田津から石湯行宮(道後温泉)までの往復路(遣新羅使の往路に重ねた)

斉明天皇の航路:
遣新羅使の往路を④の説に基づいてプロットした。当時の航海術によれば、北九州の那の津(娜大津)までが661年の百済救済軍を指揮する斉明天皇の本来のルートとほぼ同じになる。③の説によれば麻里布の浦が熟田津であり、⑤によると斉明天皇はここから、四国の熟田津、道後温泉(石湯行宮)に行幸され、滞在後、元のルートに復帰されて那の津(娜大津)に向かわれたことになる。

周防灘の潮流:
現在も当時も周防灘の潮流は②のとおり変わらないであろうから、干潮時に麻里布(熟田津)から豊後水道あたりまで流され、満潮に潮流が変わった時に、船を東に向けると道後温泉あたり(熟田津)に到着する。再出航は同様に干潮時に豊後水道あたりまで流され、満潮時に潮流が変わった時、船を北に向けると元の麻里布(熟田津)につく!ここから本来のルートを進むことになる。

額田王の歌田⑤の「--月待てば潮もかなひぬ--」にあるように、当時の航海術で周防灘を航海する場合、海の干満による潮流を利用してジクザグに進んでいたと考えられる。


参考


① 熟田津

分類地名


今の愛媛県松山市道後温泉の近くにあった港。所在地は諸説あり未詳。◆中古以降は「にぎたづ」。(学研より)



② 周防灘の潮流


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周防灘の潮流の干潮時と満潮時(参考)


③ 万葉集に出てくる麻里布と熟田津について(参考)

防長風土注進案(天保年中の編纂)より。
熊毛郡上関御宰判 麻里布
この浦はむかし歌人の遊覧せし所にて、諸国にも稀なる絶景なりしこと萬葉集に詠まるる濱清きの歌にても知られ候。往古は今の平生、竪ヶ濱、田布施までもこの浦より続きたる内海にて、與田、新庄、柳井へも汐ゆきめぐり、與田の阿古山は神武帝の御宇湧き出せし島なりと閭里に言い伝え候。海岸松生ひ続き六つの大嶋三十四の小嶋ありてかの奥州松嶋にも彷彿たりとそ、しかるに物換り星移りて山崩れ潮去りて滄海田園と變し、佳景もやや失い行きて、只わずかの松原に麻里布の名のみ残り候。人島、玖珂島、野島など、古き島の名を伝へ、文島、アタタ、歌ヶ小嶋は海中にあって古への面影まさにゆかしまれ候。

萬葉集十五ノ巻(防長風土注進案に記録されているものを引用した) 周防国玖珂郡麻里布浦行之時作歌八首(以下、新字体に変換)(熊毛郡→玖珂郡→熊毛郡に変遷)

3630 ま梶貫き 船し行かずは 見れど飽かぬ 麻里布の浦に 宿りせましを
3631 いつしかも 見むと思ひし 粟島を 外にや恋ひむ 行くよしをなみ
3632 大船に かし振り立てて 浜清き 麻里布の浦に 宿りかせまし
3633 粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや 安眠も寝ずて 我が恋ひ渡る
3634 筑紫道の 可太の大島 しましくも 見ねば恋しき 妹を置きて来ぬ
3635 妹が家道 近くありせば 見れど飽かぬ 麻里布の浦を 見せましものを
3636 家人は 帰りはや来と 伊波比島 斎ひ祀らむ 旅行く我を
3637 草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 斎ひ来にけむ

麻里布の別名を往古は「歌の津」とか「阿多の津」、というふうに呼んでいたようです。そのことは万葉集に歌で記載してあります。ただ、現在はべつの解読になっており、「にきたつ」と読んでいます。

万葉集に心得のあられる方なら、「にきたつ」と言えばすぐにわかるはずです。そもそも「にきたつ」という地名は実在しておらず、現状では諸々の記録を参照して、推測で指定してあります。万葉集にある「にきたつ」の文字を拾い出してみますと、熟田津 飽田津 和多豆 柔田津 たくさんの文字があります。現状ではこれらを一括して「にきたつ」と解読しています。

万葉集巻1-8番
熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜

万葉集巻3-323番(長歌の反歌)
百式紀乃大宮人之飽田津尓船乗将為年之不知久

万葉集巻12-3202番
柔田津尓舟乗将為跡聞之苗如何毛君之所見不来将有


④ ある考察(参考)では遣新羅使のルートは旧柳井水道を通り、出口の田布施町に麻里布の浦があると推定した。

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⑤ 万葉集巻1-8番の額田王の歌

原文: 熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜
訓読み: 熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな

この歌は、661年の百済救援戦争の時、斉明天皇の船が難波津(なにわつ)から筑紫に向かう途次において詠まれた歌である。熟田津(にきたつ)は今の松山の道後温泉付近の津(船着場)であり、ここを船出した天皇の船は一路、筑紫の娜ノ大津(なのおおつ)に向かったものとされていて、これが、現在の通説になっている。 

『日本書紀』はこの間の経緯を以下のように記している。 

七年春正月丁酉朔壬寅。御船西征。始就于海路。甲辰。御船到于大伯海。時大田姫皇女産女焉。仍名是女曰大伯皇女。庚戌。御船泊于伊予熟田津石湯行宮。〈熟田津。此云爾枳陀豆。〉 

三月丙申朔庚申。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此、名曰長津。 

7年春1月6日、斉明天皇の船は西に向かって、航路についた。8日、船は大伯の海(岡山県邑久の海)についたとき、大田姫皇女(中大兄の子で大海人皇子の妃)が、女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女と名づけた。14日、船は伊予の熟田津(愛媛県松山市付近)の石湯行宮(道後温泉)に泊まった。 

3月25日、船は本来の航路に戻って、娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那河津)とされた。(宇治谷孟訳   講談社学術文庫)


⑥ 柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上り来る時の歌

「石見(いはみ)の海(うみ) 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺を指して 和田津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹(いも)を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに よろづたび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡けこの山」
(131番・柿本人麻呂の歌)
石見(いわみ)の海(うみ)  その角(つの)の入江を  よい浦がないと 人は見るかも知れない  よい磯がないと 人は見るかも知れない   たとえよい浦がなくとも よい磯がなくとも  鯨魚(いさな)取りが 海辺を目指して集まるように  にきたづ(和田津)の 荒礒(あらいそ)に  青々と生える 美しい沖つ藻  その藻に 朝風が吹き寄せるように  夕べには 揺れ立つ波が寄せ来るように  波が寄せ来るように かき抱き  玉藻が靡くように 抱き合った妻を  心細く留まる野辺の露霜のように 残してきたので  道の曲がりかどごとに 幾たびも 振り返り見る  そのたびに 共に暮らした家は 遠のくばかり  いよいよ高く 山も越え来て  夏草のように しょんぼりして  思い萎えているけれど  妻を偲(しの)びたいぞ 妻の住む門(かど)を見せよ  靡け  この山よ  靡いて 妻の姿をみせよ

注意: 石見の海は鯨漁が可能で、波も荒く、ここ和田津(にぎたつ)は瀬戸内海では無いことは明らかである。




⑧ 熟田津について(参考)

ニキタツという地名は、ニキ・タ・ツと分析することができる。ツが港の意であることは言うまでもないが、ニキはアラ(荒) に対する語。穏やかな、という意味にほかならない。そうした形状言のニキに続くタは、名詞であろう。そこで、『万葉集』から語中にあるタの用例を求めると、田の意と見るのがもっとも穏当である。「熟」という字は、物事が十分な状態になることをも意味するが、ニキタツとは、まさにその表記の通り、理想的な田のような港の意であると見ることができる。すなわち、熟田津はラグーン(潟湖)と呼ばれる、干潟のできる港であったと考えられるのだ。