もう一つ国分寺と言う地名を発見 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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天平13年(741)聖武天皇が国家の平安を祈り、全国に建立した寺を国分寺といます。国分寺には、国師と呼ばれる僧を置いて、その国の僧や尼を監督しました。長門国の国分寺は長府に創建され、明治になって現在地の下関市南部町に移った(参考)。

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JR山陽線と新幹線の交点が新下関駅

ところが、現在の新下関駅の北西方向の綾羅木川の近くに、下関市大字有冨の小字で国分寺があった。ある時期、国分寺が避難して来たのか、初めはここにあったのかは分からない。この辺りは古代の穴戸豊浦宮と考古学的に考えられており、長門国の成立時期(移行時期)に関して興味が湧いてくる。


参考

① 長府の国分寺跡は長門国府跡(二宮、忌宮神社)の北西部にあり、新下関駅近くの秋根地区を穴戸豊浦宮の中心とすると件の国分寺がこの北西にあたる。

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長府の古絵図


② 穴戸館と思しき要須遺跡は8から9世紀頃のもので、奈良時代から平安時代あたりも長府と併存していた可能性がある(参考)