平安時代中期前後の条里制水田の発展と平安海進 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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考古博物館の専門家の意見を伺った。綾羅木川周辺の弥生時代からの条里制水田(延行条里遺跡)は平安海進の影響は大きく無かった。条里制水田は順調に範囲を拡大し、綾羅木川以北のJR山陰線・国道191号線あたりまで発展しながら開発されたことが分かる。

JR山陰線・国道191号あたりの南北の土手は人工の土塁では無く自然堆積の砂地との見解があるが、綾羅木川の護岸堤防と総合して検討する必要を示唆していた。著者の見解は、土木工事による短期対策による土手(綾羅木川の北側)と、砂防柵や砂防林を設けて意図的に砂地を長期的に盛りあげた土手(綾羅木川の南側)の組み合わせと考えている。

考古博物館の報告書にも、綾羅木川周辺が海水の侵入による内湾であったとの伝承を記載していた。


参考

① 綾羅木川周辺の条里制水田の時代的変遷(下関市立考古博物館の内部資料)

水田の開発範囲を追跡した。見辛いが薄いピンク色+黄色斜線で着色している。濃いピンクと赤の着色は水田以外の遺跡。

弥生時代に中央あたりから開拓が進み、平安時代中期から室町時代にJR山陰線・国道191号線あたりまで拡大・西進した。

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綾羅木川周辺の遺跡と条里制水田の範囲(平安時代中期から室町時代)、綾羅木川以北の国道191号線・JR山陰線あたりから砂子多川との分岐まで水田

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綾羅木川周辺の遺跡と条里制水田の範囲(奈良時代から平安時代前期)、綾羅木川以北の中央


② 下関市立考古博物館の報告書27(2010年)に、綾羅木川周辺(川中平野)に以下の通り内湾伝承があった。

「川中平野には、内湾伝承が根強く残り、「崎」、「浜」「船」など海浜に関連付けられる地名が広く点在し、大字秋根内には字「燈台」の地名も認められる。とりわけ、平野の内陸部に勧請された、長門一ノ宮である住吉神社の存在するは、この歴史的景観イメージの形成に大きな影響を与えている。」


③ 綾羅木川周辺の弥生条里制水田と平安海進の影響、そしてJR山陰線・国道191号線が通る土手についての現地写真・グーグルマップによる検討(参考)


④ 穴戸館と思しき外国の賓客を接待する施設の遺跡が綾羅木川河口近くの砂山にあった(参考)


⑤ 宝暦6年(1756)の綾羅木川周辺の絵図、綾羅木川以南に砂防林と砂防柵があった。

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