長府周辺の中世から近世の山城群と古代遺跡の関連 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長府の周辺の山々には中世から近世の山城や土塁が沢山あり(参考)、特に元寇に端を発する長門探題に関連する中世の遺跡と古代の遺構との区別が要る。

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南側の土肥山城と櫛崎城は除く

特に、古代の忌宮神社から北上する土塁(参考)の北端にある宇津宮八幡お旅所の北に直ぐ中世山城の佐加利山城があり、この山城との関連がある可能性も無い訳でも無い。しかし、この土塁は四王司山の土砂崩れから長門国府(忌宮神社)を守る役割を考えると、長門国府の設置初期に築造されたと考えるべきである。

663年の白村江の戦いの敗戦後も、元寇の当時も地政学的には違いは無く、唐と新羅の連合軍も、元軍も共に響灘から北浦海岸に上陸し、長府を占領した後に瀬戸内海を東進すると考えられる(参考)。

すなわち、古代の山城や土塁も、中世の山城や土塁も同じ戦略の中で構築されいると考えられる。すなわち、中世の多くの山城遺跡が四王司山系に集中し、その築城年代が不明とあるのは、実は古代から存在していた可能性がある。これらの中世山城遺跡の中に古代の山城遺跡が隠れている可能性も考えられる。今後の考古学的遺跡調査の際には、版築土塁や神籠石などの有無と関連性に注意する必要がある。

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四王司山、勝山、青山の山系の南側山麓で、長府に至る峠の西側が侵攻して来る唐・新羅連合軍または元軍との戦場に想定されと考えられ、地名が勝谷(しょうや)とか前勝谷(まえしょうや)となっている。


参考

① 佐加利山城(参考)、、、中土居本町の土塁との関連は?

別名: 下山城,盛山城,栄山城
城主: 北条氏,杉氏,陶山氏
所在地: 山口県下関市長府古城町

築城年代は定かではない。長門探題北条氏の居城と伝えられる。

建武2年(1335年)鎌倉幕府滅亡後、北条時直の子上野四郎入道が厚東武実の留守中に佐加利山城で挙兵した。これに対して長門守護職となっていた厚東武実は、少弐氏・宗像氏・龍造寺氏などの加勢を受けて佐加利山城を攻め立て、激戦の後に落城したという。

南北朝時代には長門守護代の杉智静が居城としていたが、康暦2年(1380年)大内弘世によって攻められ落城した。

応永6年(1399年)には大内弘茂が長門守護代の陶山佐渡守高安を佐加利山城においている。

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佐加利山城は長成中学校の南側辺りに築かれていた。 かつて古城山と呼ばれる山があったようであるが、現在は宅地が立ち並び場所ははっきりしない。古城町、長府江下町、長府中六波町の境付近だと思われるが特に遺構はない。


② 四王司山、勝山、青山の中世山城の土塁と勝山御殿(田倉御殿)の石垣(参考)

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③ 長門探題

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