久留米市、高良山の近くの上津土塁は太宰府市の水城と同じ特徴を持った古代の土塁であった。すなわち、450m以上と水城の半分弱の長さの版築土塁で、下流側に池が作られていた。679年の筑紫地震の被害が残り、それ以前の築造と分かる。
久留米市の高良山周辺は土砂崩れなどの危険性の高い地域であり、上津土塁周辺も土石流が流れ込みやすい丘陵に挟まれた地であった。すなわち、上津土塁は砂防ダムとして築造され、下流の池は農業用溜池であろう。この特徴は太宰府市の水城にそのまま当てはまり、御笠川下流の春日市から福岡市の旧奴国の水田地帯を守ったのであろう。また佐賀県の堤土塁もそうであろう。
太宰府市の水城が敵軍からの防御だけなら馬防柵と濠などで十分である。日本書紀に明記された水城を正攻法で襲うバカな敵は無く、防衛の観点では無意味である。
大宰府政庁跡あたりの御笠川周辺は土石流で出来た扇状地であり、周辺の朝鮮式山城の土塁など含めて治山事業が無かった時代の太宰府市は石コロと真砂土の砂で出来た地に毎年、土砂崩れが襲った不毛の地であった。
上津土塁の所在地
参考
① 上津土塁(参考)
上津土塁跡は国道3号線で八女方面から久留米市街に向かう際、浦山丘陵(成田山の巨大な観音像がある)と本山丘陵(自衛隊の演習場がある)の間を通り抜けて平野部に出るところにあります。ここは浦山丘陵と本山丘陵の間の最も狭くなっているところです。中央左に上津荒木川が流れています。古くから交通の要衝だったところです。
上津土塁の昭和59年調査においては、もう1つ重要な知見が得られています。それは土塁が一度崩落し後に修復された形跡が見受けられることです。報告書は原因を土台の軟弱さに求めていますが、その背景にあったのは筑紫大地震です。筑紫大地震は天武7(679)年の条に見られるもので、幅6メートル長さ9キロメートルにわたり地面に亀裂が走ったとの記載があります。
② 高良山あたりの土砂崩れのバザードマップ