大野城は亡命百済人の指導を受けた朝鮮式山城と言うが本当か? | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

大野城のある四王寺山やその他の朝鮮式山城や神籠石山城はほとんど花崗岩質の山に建設されていた(参考1参考2参考3)。この花崗岩は朝鮮半島の東部の旧任那あたりから新羅の範囲にあった。

籠城を想定した朝鮮式山城そのものは亡命百済人の指導があったかも知れないが、神籠石山城の土木工事を含め花崗岩地質の山体の土木工事は花崗岩地質では無い朝鮮半島西部出身の亡命百済人のノウハウとは言い難い。

白村江の戦い当時の日本の土木技術者の固有の技術であり、旧任那あたりから渡来した秦氏のノウハウではなかろうか?!例えば、対馬の金田城は本格的な山城であり、籠城を考慮した朝鮮式山城と言うより攻撃型の山城であり(参考)、これは日本式と言えよう。また、長門城は日本書紀には築城したと書かれ、それと思しき山城が下関市にある。しかし籠城を考慮した朝鮮式山城では無かった(参考)。


参考

{3E42D598-9DD2-4D09-8C2C-1A8862585C7C:01}
日本列島と朝鮮半島の花崗岩は、地質時代においては朝鮮半島から日本列島、ロシア沿海州に繋がっていた(参考)


{78E056F1-F921-41BA-914D-03F925D860C0:01}