7世紀からの古代の官道はもっと昔からあったのでは?! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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3世紀中頃の箸墓古墳ほか多くの古墳の石材は二上山から運ばれた。すなわち、この当時からすでに、竹内街道、長尾街道そして横大路は存在して、修羅を引く道として使われていたと思われる(参考)。大道(おおみち)として官道に指定され、相互に連結され拡幅されたのが7世紀初頭か?!

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二上山(中央、山頂の西山麓では今でも石材を切り出している)、竹内街道は南山麓を通る

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竹内街道(参考)と横大路(参考)、西端に日本最大の仁徳天皇陵がある

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二上山北麓を通る長尾街道(参考)

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明治時代の横大路(中央やや下の東西道路)

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明治時代の二上山西麓の竹内街道と長尾街道、この間に応神天皇陵などかある


参考

① 香芝市HP(コピー)

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② 大坂越えの道(参考)

大和から二上山の山麓を越えて河内に通じる道は、古く石器時代のころから石器を運ぶ道として利用され始めたものと思われる。とくに大和政権が成立したころには、西日本の各地やアジア大陸への水路にあたる瀬戸内と、奈良盆地の南部の都を結ぶ重要な通路の一つであった。

大和南部を東西に横切る横大路に接続する道には、平石峠・竹内峠・岩屋峠・穴虫峠・関屋峠など、峠越えのいくつかの街道があった。とくに、香芝市を通る峠道として、

大坂を 吾が越え来れば 二上のもみぢ葉流る 時雨降りつつ(巻十、一八五)

と『万葉集』に詠まれている大坂越えの峠道があった。この大坂越えの道は、歌詩からみて二上山近くにあった峠越えの道らしく、落葉が風に吹き流される谷川沿いを通っていたと考えられる。一説には、古地名の大坂を、今日の逢坂にあてようとする考えがある。

『日本書紀』には、天武天皇八(六七九)年十一月に竜田山と大坂山に関を置き、崇神天皇十年九月、箸墓(桜井市)の築造にあたって大坂の石を手送りで運んだ記録がある。『古事記』には、崇神天皇のとき大坂の神に黒色の楯と矛を祀った記述がある。このなかの大坂の石は大坂山でとれる石材をいい、箸墓には柏原市芝山の玄武岩が運ばれて用いられているという。大坂の神は大坂山口神社をあてることができよう。したがって大坂山と呼ばれていた山は、相当広い範囲の山地であった可能性が高い。

万葉の時代には、二上山の北麓を越える穴虫峠と関屋峠から逢坂に至る一帯の山地が大坂山と呼ばれ、その大和側と峠を越えた河内側も含めて、大坂越の道であったと私は考えている。そうすれば、『続日本紀』に「大坂の沙を以って、玉石を治めた人…」の記述があるのも、現在の金剛砂の産出する竹田川に沿った地域と合致する。

近畿の中央部を東西に横断して伊勢から東国に通じるには、この大坂の峠を越えなければならなかった。そして、高田の辺りで横大路に連絡して桜井に至り、初瀬谷を通って宇陀を経由し、伊賀・伊勢に出る「伊勢街道」に通じていた。

一方、西大和を南北に結んでいた道に太子道があった。名前の通り聖徳太子が斑鳩の学問所(法隆寺)から河内の飛鳥に向かわれた道であったといわれている。この太子道は、王寺方面から穴虫峠を越えて河内に達する道で、葛下川に沿って南下する當麻道と畠田で分岐して、下之寺・畑之浦・逢坂を経て穴虫峠に達している。途中、畑之浦で田原本街道と、逢坂で伊勢街道と、穴虫で長尾街道とそれぞれ交差していて、今日、その岐点には幾多の道標を残し、旧道の面影をとどめている。ともあれ、太子道もまた古代の大坂峠を越える道であり、大和から河内への旅人が通行した峠道だった。今日では、穴虫峠にも関屋峠にも『万葉集』時代の峠道の情緒は感じられない。


③ 日本最古の官道(参考)

大阪府と奈良県を東西に結ぶ「竹内街道」。「横大路」は、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に、「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された「大道」のルートと重なることから、日本最古の官道と呼ばれています。


④ 古代の官道(参考)

現在わかっている古代の道の姿はどのようなものなのか、古代の官道の道幅は平均して10~12メートルで、しかも恐ろしく真っ直ぐな道で場所によっては10数キロもの直線道であり、道の両側に側溝をともなうことが多いことなどがわかってきています。

道幅に関して現在の車道と比較してみると、現在の車道の一車線が約3メートルで、一般的な道は2車線ですから約6メートルで、4車線国道などは12メートルということになります。

これから考えると古代の道はえらく広い道であったことが伺われます。都城及び近辺の道幅をみると、平城京の「朱雀大路」が幅約70メートル、朱雀大路から南に伸びる「下ツ道」が幅約23メートル、難波大道が幅約18メートルだそうです。全国各地に建設された前期駅路が幅約10~12メートル、後期駅路や伝路でも6メートル前後の幅であったそうです。

古代の道が10メートルを超す幅の道であることがわかったのですが、では何故そんなに広い幅の道が造られたのでしょうか。古代律令国家のもとに計画的に造られた道は中国の隋・唐の道路を模範として造られたことがわかっています。

古代中国では紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一し、全国に「馳道(ちどう)」と呼ばれる幹線道路を建設しています。馳道は幅50歩(約70メートル)で3丈(約7メートル)ごとに街道樹を植え並木の役割をはたしていて、又道路中央の3丈は一段高くして皇帝専用であったそうです。秦は馳道の他に「直道(ちょくどう)」という軍用道路も建設していました。直道について司馬遷の『史記』には「山を塹り、谷を堙め、直ちに之を通ず」とあります。これら秦の古代道は皇帝の巡遊、軍隊の移動、資材の運搬が主な目的であったといわれます。

秦が滅んだ後は漢が道路系を継承し隋・唐と続き、隋の煬帝は「御道(ぎょどう)」という幅100歩(約140メートル)の大道を建設しています。遣隋使はこの道を見てきているわけです。古代中国の道路建設を見習た日本の古代道は、天智朝ごろには全国のかなりな地域に、造られていったと考えられているようです。自動車も無い時代に造られた幅広の直線道は外使や民に国家権力の象徴を示すものとして建設されたと考えられます。

また当時は対外的な緊張関係が高まった時期なので、大軍兵の移動のためなど軍事的な目的のために幅広の直線道が考えられていたのではないかともいわれています。いずれにせよ古代人は大きいものが好きとみえて、巨大古墳や奈良の大仏と、いやはや恐れ入りました。


⑤ 奈良の上ツ道は7世紀中頃に修理された。すなわち、古代の官道は通説より早い時期から作られた可能性がある(参考)


⑥ 仁徳天皇陵より西高野街道の方が古い(参考)