幕末、長州藩は攘夷決行のため、関門海峡を通過する外国艦船に対し砲撃したが、報復を恐れて支藩の長府藩の居城を内陸に移動した。この田倉御殿と地元で呼んでいる城は付近の岩を掻き集めて、一年足らずの突貫工事で完成させた。
その他、関門海峡には突貫工事で作った砲台が並んでいる。
参考
① 勝山御殿(田倉御殿、参考)
幕末の文久3年(1863年)5月から、長州藩と支藩の長府藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、その後6月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた。
長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は関門海峡に近接した海岸沿いの場所にあったが、情勢が緊迫する中、長府藩主毛利元周が藩邸を内陸に移すことを決定した。文久3年(1863年)から翌年にかけて行われた突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿 を築いた。
以後、勝山御殿は長府藩主(のち知藩事)の居城となったが、明治に入り知藩事が長府に再移住したのち、1873年に解体された。解体の際、建材の一部は移築され、長府の覚苑寺の庫裏・客殿となった。現在、勝山御殿跡地には石垣が残存する。
文久3年(1863)の攘夷決行に備えて築造された「低台場(ひくだいば)」と、フランス艦船の砲撃による破壊と陸戦隊による上陸、占拠を経て、翌、元治元年(1864)のイギリス・フランス・アメリカ・オランダからなる四国連合艦隊の下関砲撃(下関戦争)前に増築された「高台場(たかだいば)」の二つから成り立っています。
関門海峡を舞台とした幕末の対外衝突は、薩英戦争と共に日本が最初に経験した近代国際戦争であり、前田砲台は最も激烈な戦場となりました。特に、元治元(1864)年の四国連合艦隊来襲時には、圧倒的戦力差の前に2度目の占拠を喫し、砲台施設は焼き払われ、設置された大砲はことごとく接収されました。
③ 関門海峡沿いの砲台(参考)