福江八幡宮の秘密、もとは弁財天が主祭神であった?! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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福江八幡宮は雨が降ると境内が水浸しになります。海砂で整地してあり、お天気になればすぐ乾きます!

「昔、西の北浦海岸に向かった高台にあったが、沖の船を沈める悪戯好きな神様の為、福江地区で最も低い窪地に遷座させたとか!それも、海岸に背を向けて!」こんな人騒がせな神様ですが、五穀豊饒を願って、お祀りしています。

境内に降った雨だけでなく、正面の鳥居の前の参道からも雨水が流れ込むようになった不思議な境内地です。しかし、理由がすぐ判明した。雨降りが止まり太陽が見えるようになると、境内の弁天池の水が満々と溜まっていました!

ちなみに、元々、福江は大河が無く水稲稲作には不便な地域で、沢山の小さな溜池を作って水を確保していました。今でこそ、大正時代に作った深坂の溜池からの水を利用し、小さな溜池は不要になりました!

すなわち、福江八幡宮の境内は元々、水の神様、弁財天を祀った池を中心とした湿地帯であったのであろうと納得した。


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八幡宮の正面、参道が水浸しになっている

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八幡宮の北側、皇子八幡宮(合祀)の鳥居から境内を見る

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境内への入口となる鳥居前は、通常と異なり下っている。道路からの水が流れ込まないように、最近、側溝を整備

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氏子に忘れられた弁天池、天水が満々と溜まる


参考

① 福江八幡宮

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福江八幡宮、下関市大字福江小字林

祭神
仲哀天皇、応神天皇、神功皇后

宇佐八幡宮より勧請して創建されたが詳細は不詳です。 拝殿前の狛犬には文政3年(1820)と刻年されていました。 10月第4土曜日の秋祭りに子供達による流鏑馬(やぶさめ)の伝統神事が残っており、 神事に使われている馬具の鞍には蒔絵が施され、元和6年(1620)の墨書銘がある。明治になって集落に散在する小祠(人丸社、天神社、山王社、伊勢社、皇子八幡宮、弁財天など)が当八幡宮へ合祀された。

元は海岸近くの岡崎にあったが、西の響灘を航行する船を沈めるので、東に向け低地にお祀りした。久留見瀬は、福江の林地区の福江八幡宮の背を延長した沖合いにある海中の浅瀬。江戸時代までは、海が荒れると漁船、北前船などが難破することが多かった。今は小さな灯台が潜水艦の艦橋の様に立っている(参考)

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② 福江の地名の由来はフクの獲れる入り江(参考)


③ 御旅所があるところに八貫古墳がある

wikiによると、古墳時代も弥生時代と同様に、遺跡が安岡地区と綾羅木地区に集中しており、当時、関門地域の中心地であったと推測されている。安岡地区に築造されている前方後円墳には、観音崎古墳・天神古墳・上の山古墳・仁馬山古墳がある。このほか、福江地区には畑代古墳・長仙山古墳・八貫古墳などの円墳も築かれている。八貫古墳から出土した金環は、畿内の伝天皇陵の他から出土しておらず、この地域の首長が大きな権力を持っていたとの推測もなされている。


④ 御旅所の馬場は北浦街道の馬継所であった(参考)