新唐書日本伝にある日本はニッポンではなくヒノモト | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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日本(ヒノモト)は古の倭奴であり、島々の中の国であった。男は少なく女が多いとか!男は漁に出て陸上には居らなかったのであろう!

島々が日本国(ヒノモトノクニ、参考)であり、筑紫城は福津市にある宮地嶽神社のことである(参考)。

{482F0CC3-07BF-4D96-9387-7DE3BF97D11B:01}宮地嶽神社

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筑紫の日向(参考)

仏教は蘇我氏が522年に受け入れ信仰した(参考)。

阿毎とは海人、すなわち阿毎氏とは海人族安曇氏(蘇我氏)のことで、遣隋使が隋の皇帝に対し日の出る処の天子、、と名乗った阿毎多利思比孤は蘇我馬子だった(参考)。

神武天皇の父、彦瀲、すなわちウガヤフキアエズ尊までにウエツフミでは74代の王がいた(参考)とあるが、新唐書では32代の尊と云う。


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新唐書(1060年成立)では、古の倭奴国が日本(ヒノモト)であると書いている。670年にヤマト政権(応神天皇の末裔)が代わって入貢し、日本(ヤマト、ニッポン)について説明したが、編者は理解出来なく併記した。記紀の記述を鵜呑みにして神武天皇から皇極天皇までを記載し、また用明天皇を多利思比孤としており、720年以降のヤマト政権の意向が相当反映していると考えて差し支え無い。

旧唐書(945年成立)では倭国、すなわち蘇我氏の日本(ヒノモト)と、ヤマト政権の日本(ヤマト、ニッポン)を併記した。しかし由来についても、やはり編者は理解出来なく併記した。

旧と新のどちらの記述が正しいか分からないので、両書を残したのであろう。

679年の筑紫地震を境に日本の代表権が移ったと考えていたが、670年の入貢時点には既に政権移譲が生じているとすると、やはり、663年の白村江の戦いの敗戦が政権移譲の主要因か!天智天皇8年(669年)の遣唐使(参考)の出発時点には、少なくとも外交権の移譲があったと思われる。


参考


① 『新唐書』日本伝(参考)


日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。

 

日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の行程、南北には三カ月の行程。国に城郭はなく、連ねた逆木で柵落と為し、草茨で屋根とする。左右の小島は五十余り、皆、自ら国と呼んでおり、これに臣下が付随している。本率を一人置き、諸部を検察させている。

 

其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。

 

そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。


神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。


彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿德、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。


仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。


仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、次は仁德、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。


欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。其俗椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦;婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦線冠、飾以金玉、文布為衣、左右佩銀、長八寸、以多少明貴賤。


欽明の十一年は、梁の承聖元年(552年)に当たる。次は海達。次は用明、また目多利思比孤といい、隋の開皇末に、初めて中国と通じた。次は崇峻。崇峻か死ぬと、欽明の孫娘の雄古(推古)が立った。次は舒明、次は皇極。その俗は椎髻(不明)し、冠帯はなく、裸足で歩き、幅広の巾で後を隠し、貴者は錦の帽子、婦人の衣は純色(鮮明な色)の裙(もすそ)、長い腰襦袢で、髮を後に結う。煬帝に至り、その民に錦線冠を賜り、金玉で飾り、文様入りの布を衣と為し、左右に銀を佩びる、長さ八寸、多少は貴賎が明確となる。


途中省略


咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。


咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。


以下省略



② 『旧唐書』倭国・日本国伝(参考)


倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。


倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。


其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。


そこの訴訟をする者は、這って前に進み出る。その地には女が多く男が少ない。甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う。併せて皆が裸足で、幅広の布でその前後を隠す。貴人は錦の帽子を載せ、百姓は皆が椎髻(?)、冠も帯もない。婦人の衣は鮮やかな色の裙(スカート)、長い腰襦袢、髮を後に束ね、銀製の花を佩びる、長さ八寸、左右に各々数枝、以て貴賎、等級を明らかにする。衣服の制はとても新羅に類似している。


貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。


貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。


日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。


日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


以下省略



③ 男より女が多いとの唐書の報告は、男が危険な漁に出かける海人族一族の維持は女に委ねられたのであろう!これが女系相続制度につながったと考えると腑に落ちる(参考)。現代の大型漁船の所有者名が船体に書いてあったのを最近見たが、一族の男子名と異なる苗字の男子名が併記されたものがあったが、入り婿であろうか?



④ 日本(ヒノモト)が北九州を根拠地とする海人族安曇氏の国であり、古の倭の奴国の根拠地と重なり、志賀島から金印(漢倭奴国王印)が出土しても不思議では無い!ただし、漢に朝貢した奴国王は呉系弥生人で、そして魏に朝貢した親魏倭王は斉系弥生人(初期ヤマト政権)であった(参考)



⑤ 九州と大和の二ヶ所に首都があり、政権交代をしていた(参考)