瀬戸内海以東の高地性集落(環濠付きを含む)は生活を伴う山城、そして主に北九州から瀬戸内海にある神籠石系山城は籠城のみを目的とした非定住の山城と考えられる。
共に物部氏につながるが前者は越系弥生人(O2a)、後者は呉系弥生人(O2b)よるものであろう(参考)。
これが戦国時代の山城、例えば安土城のルーツか!
① 高地性集落
② 高地性集落(参考)
香川県の紫雲出山(しうでやま)遺跡は標高350mほどの山頂にある遺跡で、住居址は確認されませんでしたが、大量の遺物が出土し、その内容も低地の遺跡とほぼ同じでした。なかでも300本近い「石鏃」は重量があり大きく、弥生時代中期に最も殺傷力がある石鏃に進化したことが判ります。
兵庫県の会下山(えげのやま)遺跡は、六甲山系の標高180mの狭い山頂尾根部に何段にもわたってあり、住居址、祭祀跡、土壙、焼土壙が検出されました。遺物の中で注目されたのは低地遺跡で出土するものより長大な石鏃、石弾、鉄鏃、青銅鏃で、中でも「三翼鏃(さんよくぞく)」とよばれる強力な青銅鏃は注目されています。
明石海峡を眼下に望む兵庫県淡路島の塩壷西(しおつぼにし)遺跡は、弥生時代後期末の高地性集落で、標高40~70mの尾根上に多数の住居址、火炊き跡、溝などが検出され、その中から長さ14㎝、重さ54gという最大級の鉄鏃3本が発見されました。この遺跡は瀬戸内海の海上ルートの重要拠点として絶好の場所にあります。
関東地方でも約30ヶ所以上の高地性集落が確認されています。なかでも群馬県の中高瀬観音山遺跡は周囲の平地との比高差が60m以上有り、傾斜度が20~40度という急斜面の僅かな平坦部につくられた弥生時代後期の集落で、北国街道に面する要衝の地にあります。100軒以上の住居址が検出され、床面積が60㎡以上のものが5軒もあり、そのいくつかは焼失家屋でした。石鏃類の出土量も多く、膨大な黒曜石片もあり、この遺跡の性格を知る上で重要な遺物といえます。
高地性集落(こうちせいしゅうらく)とは、日本の弥生時代中・後期に、平地より数十mも高い山頂部や斜面に形成された集落である。
弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。
それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面から、弥生時代中期~後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、その性格をめぐって様々な議論が提起されている。
まず、高地性集落の分布は、紀元前1世紀~紀元2世紀に瀬戸内と大阪湾岸に、紀元3世紀以降に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。そして、集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。
集落の分布状況から、紀元前1世紀~紀元3世紀にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。さらに、紀元前1世紀~紀元3世紀という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方。他にも神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある。一方環濠集落はほぼ弥生時代全期間を通じて存在した。これは、近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、北部九州とヤマトというような遠く離れた地域間の戦いに備えたものでないことが考えられる。
20世紀末期ごろからは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ている。
それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面から、弥生時代中期~後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、その性格をめぐって様々な議論が提起されている。
まず、高地性集落の分布は、紀元前1世紀~紀元2世紀に瀬戸内と大阪湾岸に、紀元3世紀以降に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。そして、集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。
集落の分布状況から、紀元前1世紀~紀元3世紀にかけて、北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。さらに、紀元前1世紀~紀元3世紀という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方。他にも神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある。一方環濠集落はほぼ弥生時代全期間を通じて存在した。これは、近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、北部九州とヤマトというような遠く離れた地域間の戦いに備えたものでないことが考えられる。
20世紀末期ごろからは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ている。
③ 高地性集落(参考)
高地性集落は低地よりかなりの比高差をもった展望の良い場所に造られたもので、比高差が1,000m以上にもなる山頂や尾根筋上に形成される事例と、比交差が10m程度の丘陵や台地の縁辺部に形成された事例があります。高所の場合は5棟ほどの小さな集落が多く、「狼煙台(のろしだい)」を伴う場合もあり、通信施設の役割を果たしていたと解釈されています。
兵庫県の会下山(えげのやま)遺跡は、六甲山系の標高180mの狭い山頂尾根部に何段にもわたってあり、住居址、祭祀跡、土壙、焼土壙が検出されました。遺物の中で注目されたのは低地遺跡で出土するものより長大な石鏃、石弾、鉄鏃、青銅鏃で、中でも「三翼鏃(さんよくぞく)」とよばれる強力な青銅鏃は注目されています。
明石海峡を眼下に望む兵庫県淡路島の塩壷西(しおつぼにし)遺跡は、弥生時代後期末の高地性集落で、標高40~70mの尾根上に多数の住居址、火炊き跡、溝などが検出され、その中から長さ14㎝、重さ54gという最大級の鉄鏃3本が発見されました。この遺跡は瀬戸内海の海上ルートの重要拠点として絶好の場所にあります。
関東地方でも約30ヶ所以上の高地性集落が確認されています。なかでも群馬県の中高瀬観音山遺跡は周囲の平地との比高差が60m以上有り、傾斜度が20~40度という急斜面の僅かな平坦部につくられた弥生時代後期の集落で、北国街道に面する要衝の地にあります。100軒以上の住居址が検出され、床面積が60㎡以上のものが5軒もあり、そのいくつかは焼失家屋でした。石鏃類の出土量も多く、膨大な黒曜石片もあり、この遺跡の性格を知る上で重要な遺物といえます。