福岡県みやま市あたりに奈良県天理市あたりから物部氏の派遣があった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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百済から神功皇后に献上された七枝刀であろうとされる七支刀が祀られている天理市の石上神宮は物部氏の氏神である。また、福岡県みやま市の瀬高町太神にある高野の宮、すなわち磯上物部神社に七支刀を持った武人像がある。

福岡県みやま市あたりには神功皇后の土蜘蛛征伐の伝説があるが、現地の土蜘蛛(物部氏、呉系弥生人、O2b)を管理するために、神功皇后が大和(奈良県天理市)から物部氏(越系弥生人、O2a)を派遣した。この時、七支刀を持った武人の木像を思い出に携行したのであろう。


参考

① 天理市の石上神宮の七支刀(参考)

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② みやま市の高野の宮の武人の木像(参考)

福岡県みやま市の瀬高町太神(せたかまちおおが)」の集落はずれのあぜ道をひたすら走ると、とある小さなお堂があります。地元の方々には「高野の宮(こうやのみや)」と呼ばれております。このお堂、あまり名が知られておりませんが、実は大変歴史あるお堂なんです。

この高野の宮は、5体の木像がご神体でありますが、大変珍しい格好をしております。何と、奈良の石上神社(いそのかみじんじゃ)にある百済から贈られた、七支刀を持った武人姿の木像なんです。服装からして百済人ではないかと言われておりますが、九州一円、いや日本中探しても、七支刀を持った姿の木像はここだけだと思います。また他にも、地の権力者と思われる像が一体、そして高句麗系と言われる背の高い木像が一体、鏡を持った人物の木像が一体、河童とも鬼とも思われる赤い体で頭に皿を乗せた木像が一体あります。地元の人の話では、元々7体あったのではないかと言われておりますが、一度火災にあい資料がすべて燃えてしまったので、今では元々の数や木像とお宮の由来が不明だそうです。

この高野の宮は、久留米の高良大社にある高良記天慶神名帳に「礒上物部神(いそのかみもののべしん)」と書かれており、これがこのお堂の正式名称であります。この周りには「物部田中神(もののべたなかしん)」「物部阿志賀神(もののべあしかしん)」他、数多くの物部に関連したお堂がありますが、この「礒上物部神社」が一番中心的な神社だそうです。実は瀬高町の太神(おおが)は、元々「於保三和(そほみわ)」と呼ばれておりました。「於保」は「ソホリ」、つまりソウルの語源にもなった言葉で、「村や国の中心地」を意味します。やはりここは、礒上物部一族が暮らした中心地なんですね。

氏姓の記録では、「磯上氏(一族)」から「物部氏」がでて、物部氏から「田中氏」、「阿志賀氏」が出たとの記録があり、礒上物部氏の祖神を祀ったのが、この「礒上物部神社(高野の宮)」なんですね。ちなみに「イソ」と言えば「鉄」でしたね。この一帯には古来より製鉄関連の地でもあり、この礒上物部一族は製鉄にまつわる渡来氏族だとも言われております。奈良の七支刀が見つかった神社は、「石上神社(いそのかみじんじゃ)」で、物部氏の武器庫だったんです。石上(いそのかみ)と礒上(いそのかみ)は同じ意味だとも言われており、七支刀は百済から高野の宮に一旦渡り、そこから朝廷に献上されたとも言われておりますが、真相はわからず仕舞です。


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③ 日本書紀によると、神功皇后が、かつて「山門(やまと)」と呼ばれたこの地の土蜘蛛・田油津媛(タブラツヒメ)を討ったとのことです。また、その兄である夏羽(ナツハ)が軍勢を従えてやって来たのですが、妹が討たれたと知り、逃げ去りました(参考)


④ 物部氏はO2系統の渡来系弥生人(参考)


⑤ 呉・越系弥生人の渡来ルート(参考)


⑥ 高良大社は筑後地域の管理事務所(参考)


⑦ 甘木・朝倉地域にはヤマト政権が駐屯していた(参考)


⑧ 神功皇后は武内宿禰や海人族安曇氏と同族である(参考)


⑨ 海人族安曇氏は宮地嶽神社が本宮(参考)