源平合戦の勝敗の行方は舟の持ち主の海人族が握っていた。
すなわち、源氏軍の舟の方が多い!平家方の水軍は北九州の地元で関門海峡を熟知していたはずなのに、海流の転換時間を知って知らん顔であった。
壇ノ浦の合戦の前に、北九州は源氏に押さえられ(参考②)、また、地元の関門海峡を護る西門鎮守八幡宮の3社は源氏勝利を告げていた(参考)!下関の地元民も源氏を支持していた(
参考)。
参考
① 壇ノ浦の合戦(wikiより抜粋)
② 源氏は壇ノ浦の合戦以前に北九州を確保した
源範頼はあらかじめ下関の響灘沿岸を占領しており
(参考)、響灘を渡って芦屋あたりを攻めたのであろう!これで、平家は西、すなわち松浦党の地元に逃げることが出来なかった。
④ 響灘沿岸の安岡の漁師に平家の落人伝説はあるが宗像系では無く、安曇系の漁師の
軍団としては参戦した形跡が無い。
⑤ 宗像の漁師は松浦党と同じく一応、平家方か(
参考)!
⑥ 彦島の対岸の伊崎の厳島神社は安徳天皇が亡くなられてから慌てて宮島から勧進された(
参考)。新地の長門国厳島神社も同様であった(
参考)。
伊崎町の漁師(蛭子神社)も彦島の海士郷町の漁師(恵比須神社)も海人族安曇氏の系統で、本来、平家が崇めた厳島神(宗像三女神)を祀る氏族では無い!