武内宿禰とその子孫は北九州あたりが出身 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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奈良県にある武内宿禰の子孫たちの氏族ゆかりの地名、葛城、蘇我、平群、巨勢、紀氏、羽田ゆかりの地名が、福岡県、佐賀県内にある。

また、額田、田部などは山口県下関市にもゆかりの地名である(参考)。

彼等が神武天皇や応神天皇と一緒に東征した(参考)。ちなみに、神武天皇は筑紫の日向から、応神天皇は神功皇后と一緒に穴門豊浦宮から出発している(参考)。共に玄海灘から響灘の沿岸であった。


コメント:

彼等は海人族安曇氏の入婿でパワーを獲得した。想像であるが、彼等は北九州に入植した呉の太白の末裔、呉系弥生人であり本来は物部氏の系統であるが(参考)、幸運にも海人族安曇氏に入婿出来た者が武内宿禰の末裔を名乗って権力争いに参入したと考えられる(参考)。このように考える理由に、海人族安曇氏の男性遺伝子C1が日本列島の内陸に拡散せずに、O2bとD2が主流になることにある。海人族安曇氏の男性はもっぱら海上の制覇に力を注いでいたのであろう(参考)

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男性遺伝子の頻度の順位はO2、D2、C1となっている。C1は朝鮮半島、中国大陸、台湾にも分布している。すなわち、海外にも現地妻がおり、最先端の知識を獲得していた!(時代は降るが日宋貿易のころ、宗像大宮司の妻は中国人であったことが分かっている)

魏志倭人伝に、国々が争っていたが女王卑弥呼を立てるとまとまり、死ぬと分裂したので再度、女王臺輿を立てたと記述されている。すなわち、女王の卑弥呼、臺輿は海人族安曇氏の女子であり、争いあった国々とは海人族安曇氏に入婿した男達の支配地域と考えると腑に落ちる。すなわち、女王国とは福津市・宗像市あたりの海人族安曇氏の支配地域であった(参考)

志賀島の志賀海神社が海人族安曇氏の本宮と言うことになっているが、記紀が刊行された720年以降のことであろう。志賀島から漢奴国王の金印が出土したことから、志賀島は元々、奴国王が入婿していた海人族安曇氏の島であったであろう。ちなみに、筑紫君磐井も子の葛子も海人族安曇氏の入婿であった(参考)。


参考

① 福岡県福岡市早良区の古代地名(wikiより)

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② 福岡県久留米市の高良大社に関連する地名(wikiにある九州王朝論者の主張)

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③ 葛城神社(福岡県築上郡築上町奈古)

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④ 千葉県蘇我市中央区は蘇我氏の開発地であった(参考)