穴門の名前の由来の再考 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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今まで、穴門の由来について本居宣長や平田篤胤らの大嘘に惑わされ、日本書紀や古事記がデタラメ神話と見做され、下関の歴史そのものが撹乱されたのは否めない!

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弥生時代からの条里制地割の水田を見て欲しい!この写真は山陽新幹線の開業前のものである。綾羅木川の流れに変化なく、河川両側の水田が綺麗に地割されている。

仲哀天皇が5年の歳月をかけて、綾羅木川の川幅を広げて護岸工事をしたことで、この河口から九州へも朝鮮半島へも、関門海峡の潮流を気にすること無く自由に出発、帰還できることになった。さらに今日まで延行条里遺跡と呼ばれる水田となり、下関の発展に尽くした。

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現在の穴門、綾羅木川河口域の船溜り

参考

① 穴門の由来について、面白く解説したブログがあったので抜粋した(参考):

穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

一説では「14代仲哀天皇は5年余りの歳月を掛けて、舟が通過できるように穴戸の開削工事を行った。」と云われている。


② 下関市秋根あたりが穴門国(参考)


③ 穴戸である綾羅木川の上流は土砂崩れの恐れがあり、土砂で埋まった川を浚渫したのが穴戸の開削工事である(参考)