徳川光圀の大日本史の編纂事業をつうじて水戸に尊王攘夷思想が芽吹き、長州藩を始めとする尊王攘夷、倒幕運動にたどり着いた。
しかし、実は徳川光圀は大日本史を編纂した理由は徳川幕府の正当性を主張するためであった。林羅山の本朝通鑑の方針(天皇家の相対化)を否定して、紀記神話に基づいた絶対的権威を持つ天皇に委任されたことを方針とすることであった。
結果的には、林羅山の本朝通鑑の言う「天皇家は漢民族の祖でもある呉の太白の末裔」では無かったので、徳川光圀の判断は正しかった。
参考
天皇の神格性を重視する光圀は、この本朝通鑑に反発し大日本史の編纂を始めます。光圀は幕府の正当性を林家が否定した日本書紀などの神話に求める事で、「神聖な天皇によって政権を委ねられた幕府の存在は正当である」と考えたのです。なので大日本史編纂自体は、徳川幕府成立の正当性を歴史(神話)に求めたものなので、徳川幕府に害をなすと言うものではありません。
南朝に関しては、後醍醐天皇から南北朝に別れてから後亀山天皇が後小松天皇に「神器」を譲るまでの57年間の扱いは彰考館員でも意見が分かれ、血統上は問題ないので南北両朝を認める説もありましたが、これとは別に「天に二日なし地に二王無し」の通り、いづれがを正統すべきと言う意見もあり激しい論議が起きたようですが、現朝廷が北朝という事もあり、「南朝を正統としてははばかりがある」と彰考館では結論が出なかったので、光圀が「神器のあるところをもって正統」としたので、大日本史では南朝が正統となったのです。(ヤフー知恵袋より)