何故、倭国の邪馬臺国は親魏倭王になったのか! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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卑弥呼は魏から親魏倭王の称号や鏡100枚をもらい、また魏の使者を倭国に招き、倭国の内情を教えたのか?また、何故、三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)として、魏の歴史の中に倭国、邪馬臺国が記述されたのか?

答えは簡単です!

魏と邪馬臺国は同族の国でした。魏の領域は春秋戦国時代の盟主、斉を含み、斉の遺民が多く残留したと考えられる(参考)。

魏志倭人伝の種本の魏略においては、倭人は呉の太白の末裔となっていました。最初に渡来した弥生人は早く滅亡した呉の遺民で、北九州の吉野ヶ里あたりに入植していました。100年くらい後の斉の危機の時以来、斉の遺民が本州西岸の響灘沿岸の土井ヶ浜に渡来した(参考)。これ以降に倭国の盟主となった邪馬臺国であったので、魏志倭人伝では当然、「呉の太白の末裔」を削除した。

さらに、魏の使者は同族の国について詳細に記述しながら、往復の渡航ルートに関し、対馬から壱岐、北九州を無理に通過している。邪馬臺国への直行ルートは明らかにしていない。距離感覚、方位感覚(東を南)、地名の命名などに無理があり、国防機密に関して邪馬臺国の役人と相談した節がある。すなわち、斉出身では無く、呉出身である北九州の民を矢面に立たせる戦略を取っている(参考)。


参考

三国志時代(3世紀)の魏呉蜀は春秋時代の3国の再興か?

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② 春秋時代(紀元前8から5世紀)、斉、呉、秦、その他が同時に存在する。

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③ 中国の史書に「倭人は太白の後裔である」との記事があるため日本列島の倭人(日本人の直接の祖先)は、呉を建国した太白の後裔であるから、日本民族は長江流域の呉の人間が渡来して形成されたに違いない―という見解がある。

その史書は、『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の太宰府天満宮の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

その部分は次の通り。
<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>

この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太白の後」は無い(参考)。

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江南地域に呉、現在の江蘇省南部から上海あたり、吉野ヶ里遺跡の渡来系弥生人の故郷


④ 春秋戦国時代の国々の興亡、呉は紀元前473年に滅亡、吉野ヶ里遺跡は紀元前400年頃から大きくなる。斉は最も遅く、紀元前207年に滅亡したが、紀元前300頃から日本列島に渡海していた。

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⑤ 和服は春秋時代の呉から北九州へ渡来した






⑧   三国時代の魏は羌族、斉と同じくチベット系遊牧民で、土井ヶ浜に渡来した斉系弥生人と同一文化にあった。

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土井ヶ浜に渡来した春秋戦国時代の斉系弥生人は魚介類を蛋白源とする稲作弥生人となっていた。山東半島にあった斉の国には魚介類と米の交換を望む海人族(安曇氏)がおり、この海人族との契約で日本に渡来出来た!もちろん稲作技術は江南から得た。