狼煙の利用例 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

① 能登半島の北東端の北前船の灯台

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地名としての狼煙は能登半島の最北東端に位置しています。集落の北東には禄剛崎があります。

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上の写真は能登半島最北端の標識と禄剛崎灯台を撮影したものです。

地名の由来は、地内にある山伏山について、「能登名跡志」によると、山の過半は狼煙村領で、古くは鈴ヶ嶽、俗に嶽山とも称し、渡海の船が難風に遭った際、三崎権現(現在の須須神社)に祈ると火が見え、海難を免れることができたので「狼煙」という名前になったと記されています(参考)。


② 西方の糸島半島の古代の狼煙

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福岡県糸島市の火山、筑前國続風土記』によると火山の名は、神功皇后が山上で火を焚いた ことから付いたといわれている。 古来より山頂に火を焚き夜間の海上交通の目印となっていたことに由来するものであろう。 また、海上からの外敵侵入の際、太宰府へ急を告げる狼煙山であったという説や、 「続日本記」に記された古代山城「稲積城」がこの地であるという説もある。


③ 幕末の狼煙ネットワーク

文化5年(1808)8月15日、オランダの国旗を掲げた軍艦が長崎港に入ってきた。実はイギリスの軍艦フェ-トン号であったのだが、だまされて出迎えたオランダ人はたちまち捉えらえた。この人質と交換に食料と燃料を奪い取ったイギリス軍艦は、長崎奉行とオランダ商館長を尻目に悠々と立ち去っていった。その直後、長崎奉行松平康平は引責自殺、長崎警備当番の佐賀藩も家老数名が切腹、藩主鍋島斉直は謹慎処分になった。これが有名なフェ-トン号事件である。

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この年、長崎奉行はロシアの接近に備え、急報の手段として烽火台の準備を黒田・鍋島の両藩主に命じていた。佐賀藩では、長崎の烽火山で揚げる烽火を肥前高来郡の多良崎が見て烽火を揚げ、それを肥前三根郡の朝日山が見て烽火を揚げ、筑前・筑後の大名に知らせることにした(『鍋島直正公伝』)。 

福岡藩では、この朝日山の烽火を、先ず御笠郡の天山がキャッチ、四王寺山-しょうけ越え-龍王岳-六が岳-石峯山の順に烽火を揚げ、豊前小倉領の霧が岳に伝えることにし、文化6年1月20日のテストに成功。先ず天山と四王寺山に烽火台を設置した。6か所の烽火台がすべて完成したのは10月のことであった(『黒田斉清譜』、参考)。


④ 戦国時代の狼煙ネットワーク

戦国時代に武田氏が築いた烽火台の大伝達網(ネットワーク)は、信玄の居城であった府中(現甲府市古府中町)の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館を中心に現在の長野県・埼玉県・静岡県・神奈川県方面に張り巡らされていたようです。

須玉町はそのうち長野県(信濃)へ通じるルートに位置します。そのため須玉町の若神子(わかみこ)は戦略上の重要な地点でした。武田信玄は川中島へ出陣のときには若神子で幾度か陣を張ったという記録が『高白斎記』や『甲陽軍鑑』に記されています。

須玉町内にあった烽火台は塩川と須玉川沿いに4~5キロメートルの間隔で点在していました。『甲陽軍鑑』には「大河をもって用うべし」ともあり、塩川流域のように両岸が山地のような地形が烽火台設置に適していたコースだったようです。さらに、烽火台のある山の後方には高い山や大きな森などが背景となって遠方からでも白い煙がよく見えやすいように配慮がなされていました。

町内には少なくとも12ヵ所の烽火台があったことが調査から判明しています。

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信州峠に烽火が挙がると、北から黒森・和田・御門(みかど)・神戸(ごうど)・前の山・比志の城山(じょうやま)・大渡・馬場(ばんば)・獅子吼(しし)城・中尾城、そして若神子城の各烽火台へと次々に伝達され、さらにここから南に位置する躑躅ヶ崎へと伝達されていったのです。

躑躅ヶ崎と信州の善光寺平までの間の距離は約160kmありますが、もしこの区間を早馬で伝達すると十時間以上もかかったものを、烽火を用いると約2時間程度で伝達されたということです(参考)。