沖ノ島海域に明治中期あたりまで山口県の漁師も出漁していた。
対馬にも出漁していたので当然のことではあるし、山口県の北浦海岸にも宗像海人が出漁しており、響灘は彼らの交流圏であった。
参考
① 沖ノ島周辺海域の漁業権
(参考)
② 北浦沿岸の安岡浦と吉母(下関市)
吉母の南にある安岡浦の記述であるが、安岡浦からは遠く対馬~韓国沿岸まで出漁していた。250年前の安岡浦保有船の記録によると、漁船62艘、いさば船(対馬や松浦の海産物を大阪まで運ぶ商船)8艘となっている。同じく150年前の記録には、三反船2艘、漁船88艘、磯小船50艘とある。これらの船は勿論エンジンなど無く、改良された帆と航海技術を持っていたが、基本的には神功皇后時代と同じく海流と風の力の知識によるものであろう。
③ 対馬沿岸にも長州の漁師が出漁していた。
④ 宗像海人も響灘沿岸から山陰沿岸に進出していた(参考)。