豊北町大字神田の住吉神社の氏子は古来から尊王攘夷の志士だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市豊北町には大字神田と言う地域がある!8世紀初頭、白村江の戦いの敗戦後に相当するが、国防と言う観点から住吉神社が創建されたとか!この神社を支える氏子達の水田が神田であり、神社と氏子達(軍団)を支えている!

日本書紀や古事記などに記載されなく、縁の下の立場であったが、元寇の弘安の役では活躍した!

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角島の対岸の島戸から南下した土井ヶ浜あたりまでの地域


参考

① 住吉神社-豊北町(すみよし)、山口県下関市豊北町大字神田上5871 旧長門国 豊浦郡

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祭神: 住吉三神

由来:
奈良時代の養老三年(719)、国防上の見地から神田別府が置かれると共に、藤原範貞が宇佐八幡宮を勧請して、一 ノ宮神田別府八幡宮が創建された。その後、江戸時代の宝暦年間(1751~)、一ノ宮住吉大神と改められたと伝える。明治三十九年(1906)、小村の氏神等の小祀を統合し、境内社別府神社に合祀する(旧村社)。

住吉神社(現)豊北町大字神田上 根崎
矢玉川の支流が集まる小盆地の北に鎮座し、参道には黒松の巨木がそびえ、社叢にはイチイガシの巨木や、サカキカズラ、イヌビワなどの珍しい植物が茂る。祭神は住吉三神で、八幡神を配祀する。旧村社

社伝では養老三年(719)藤原範貞が宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)より勧請したと伝え、古くは神田八幡宮・神田別府八幡宮・一宮八幡宮などと称せられたが、宝暦年中(1751-64)に一宮住吉大神と改めたと伝える。

「寺社由来」は寿永二年(1183)と永徳二年(1382)の銘のある宝鏡があるとし、応安元年(1368)および二年の文書を載せる。当神社蔵の永禄二年(1559)文書には、石井宮内大夫が一宮と二宮(神功皇后神社)両社の大宮司職をつとめたとあり、天文二〇年(1551)から神田別府のうちに一〇〇石の地が与えられていたと記される。天正一二年(1584)には桑原吉左衛門尉春宅が太鼓を寄進、同一七年には一宮・二宮両社祭礼料として浮米七石が下された。また慶長一四年(1609)には鐘楼が造営された。この梵鐘について「注進案」には、「古老申伝に太閤朝鮮御陣に諸宮寺の鐘太鼓御用の節、此鐘をも御入用の為持去らんと致し候処、当社より八丁計平川村にて鐘ゐすわり動不申、仍て打拾置候処氏子の者弐人難なく取かへり奉納致し候由申伝候、今に鐘居峠と申す地有之候」と記す。この梵鐘は現存し、室町時代の作である。
(略) (『山口県の地名』平凡社刊より)
(山口県神社誌)(参考)


② さらに、豊北町の北端の大字神田の島戸には東門鎮護住吉八幡宮があるが、神功皇后の時代から国防のために創建されたとの由来がある。




④ 住吉三神は港を護る津守であった!

住吉三神(表筒男神、中筒男神、底筒男神)は、ニニギの禊で、安曇族の祖神である綿津見三神(上綿津見神、中綿津見神、下綿津見神)と同時に生まれた海神である。しかし「住吉族」とはどのような人たちであったのか?そもそも「住吉族」という一族はいたのだろうか?

いや、住吉三神を祖神と仰ぐ一族の末裔ではなく、綿津見三神と一体(ペアー)の神であったので、安曇族と同族(むしろ同一神)、ないしは分家していったのではないかとも言われている。

このように「住吉三神」の祭祀氏族は不明なのだ。のちに各地の沿岸の港「津」を守る男の神(筒男神。綿津見神は女神であるとする)を祀るために、それぞれ筑紫、長門、摂津と地域ごとに朝廷により氏族が配置されたという。やがては摂津の津守氏が国家祭祀を行う住吉大社宮司として力を持ち、徐々に瀬戸内海を西遷し(安曇族が東遷してきた道を戻って)、ついには故地である筑紫那の津の住吉神をも祀るようになったのだろう(参考)。












感想

著者の住む農業地域はまとまって下関市一宮町の長門一宮、住吉神社の氏子であり、五穀豊饒の御幣とお札を頂いている。今では、本土防衛なんて言う言い伝えは無いが、無意識に生活を千数百年続け、住吉神社を維持して行くことが、すなわち本土防衛につながるのであろう!