北浦海岸沿いの龍神信仰 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

① 豊浦町川棚温泉の青龍伝説

{1F40AA52-526B-4D69-807E-9B7A375613C8:01}

遠い昔、とようらの地の奥深い森に囲まれた泉に、水の神様として一匹の青龍が住んでいました。青龍の住む泉はどんな日照りでも枯れることなく、青龍に与えられた清らかで豊富な水により、農作物は豊かに育ち浦々ではたくさんの魚がとれました。しかし、ある時この地を大地震が襲いました。大地震は一夜にして青龍の住む泉を熱湯へと変え、山を崩し、泉を埋めてしまったのです。そして青龍も住む場所を失った悲しさから病気になり死んでしまいました。青龍と泉を失った村では長く日照りが続き、作物は枯れ、人々は病気に苦しみました。困った村人達は、青龍を祀るための社をつくり、この土地の守り神として人々の生活を守ってくれるよう祈り続けました。そんなある日、村人が青龍の住む泉のあった場所に畑をつくろうとして地面を掘ると、そこから温泉が湧き出したのです。不思議なことに温泉の湯を浴びると、それまで病気で苦しんでいた人たちは元気になったといいます(参考)。


② 青龍権現、松尾神社、豊浦町川棚温泉

祭神: 大山咋命 相殿: 伊邪那岐命  伊邪那美命

{85C6B99F-7297-4DBE-9BE8-75E3D3BAEAA5:01}

大山咋命は大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。

伊邪那岐命と伊邪那美命は国土と神々を作られたご夫婦の神様である。



{2AFDA895-29E3-4D94-B068-A7BDEEB762E5:01}

伝説によると二見浦の背後、馬路山に棲む龍が台風で大時化になる日、夫婦岩の間を通り、本郷沖、壁島の龍権社に御参りをされるという。


④ 龍王神社、吉見の龍王山

{1028D6D3-7574-4A16-B05B-8782A06DDF92:01}

祭神の八大龍王(はちだいりゅうおう)は、天龍八部衆に所属する竜族の八王。法華経(序品)に登場し、仏法を守護する。 霊鷲山にて十六羅漢を始め、諸天、諸菩薩と共に、水中の主である八大龍王も幾千万億の眷属の龍達とともに釈迦の教えに耳を傾けた。釈迦は「妙法蓮華経」の第二十五 観世音菩薩普門品に遺されているように「観音菩薩の御働き」を説いた。その結果、「覚り」を超える「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、原語Anuttara samyaksaMbodhi)、無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく)」を得て、護法の神となられるに至った。

④-2 住吉神社裏の一の宮竜王山

{668CB68A-EDEA-4412-A601-1D52383D3F20:01}
山頂に八大竜王の祠がある。麓には住吉神社のほか、新福寺がある。

④-3 関門海峡に面した平家の安徳天皇にゆかりの伊崎の厳島神社に八大龍王が祀られている。



{43542875-5445-4FFE-A395-550B162D268D:01}

狗留孫山の南東方8合目付近に修験の寺として名高い古刹、狗留孫山修禅寺があります。現在は修験当山派の流れをくむ真言宗醍醐派の別格本山。かつては狗留孫山観世音寺と号して、古くから観音霊場としても名を馳せ、地元長門国はもちろん、遠く筑前国や豊前国からも多くの参詣者が訪れたといいます。臨済宗を開いたことで有名な栄西が中興開山。本堂に接して観音岩とよぶ巨岩があり、同寺の縁起によれば、この観音岩は、その昔、沙羯羅龍王(「しゃかつら」ともいい、仏法の守護神。八大龍王の一)が拘留孫仏に希って立てた塔婆の頭で、観音菩薩の化身といわれます。このあたりが「狗留孫山」の由来でしょうか(参考)。



宗像三女神と仏様である弁財天は従来、同一視され(参考琵琶湖の竹生島神社)、また瀬織津姫と弁財天を同一視する神社もあり、水神、龍神として信仰された。

瀬織津姫は祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。また、龍の化身で天照大神の荒御魂とも見なされている。


⑥-3 萩市明神池、笠山の麓の明神池の周りに3社の漁業と水に関わる神社がある。

{5EBCE8F1-4872-4190-A66B-E592F10F22BE:01}
南に恵比寿神社(事代主命、出雲美保神社から)、左手に厳島神社、隣に弁財天社

{566FC17F-D3DA-481E-A3D5-A558DB46614E:01}
恵比寿神社、道路の右側に明神池

{00D7DB5D-C136-459A-B0C4-0B43CD51D0B8:01}
左手が厳島神社、右手奥が弁財天社、祭神は同一の市杵島姫命であるが、弁財天社の方が古い。

笠山の東麓にあり、その昔笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、埋め残されてできた池が明神池です。大池、中の池、奥の池の三部分からなり、池は溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、潮の干満が見られます。萩藩2代藩主毛利綱広が、毛利元就が信仰していた安芸の厳島明神を勧請して分岐、貞享3年(1686)に厳島神社を創建しました。漁業の神様として信仰され、これに因んで明神池と呼ばれるようになりました。地元の漁師たちが豊漁を祈願して奉納した魚が繁殖し、マダイ、イシダイ、ボラ、エイ、コチ、スズキなど池の中には様々な近海の磯付き魚が泳ぎ、天然の水族館とも呼ばれます。

池の北側に弁財天が祀られていることから、昔は弁天池、また、藩主の茶室が建てられていたことから、御茶屋の池とも呼ばれていました。周囲は玄武岩の溶岩が積み重なり、老樹が生い茂る景勝地です。