華山の仲哀天皇殯葬所と豊浦山神上寺(西の高野山) | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市の菊川町と豊田町の間に華山がある。神代、秋津島の最西端の霊峰として大神山と称えられていた。景行天皇、仲哀天皇らが熊襲征伐に戦勝祈願された。また、頂上の西の嶽には神功皇后が三韓征伐の戦勝を祈願し、また九州で亡くなられた仲哀天皇を埋葬した。

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天智天皇は西ヶ嶽に社を建てた。この山の東の嶽には、この後、700年頃、豊浦山神上寺が創建された(現在は麓に遷座している)。この豊浦山神上寺は白村江の敗戦の後、役行者によって創建されたもので巨大な寺院があったと云われている。

実際、下関市で今でも自家用車で山頂まで登れる県道262号線がある高い山は華山のみで、この道は西海岸の川棚まで続いている。

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右端中央に、華山(げさん)の東の嶽と、西の嶽(仲哀天皇殯葬所)がある。西の海岸は豊浦町小串あたり

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華山のクローズアップ(大字江良)、東が豊田盆地の南部(大字日野)

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仲哀天皇殯葬所(華山の西の嶽)、菊川町の桜井八幡宮がお祀りしている(参考)。

神功皇后は仲哀天皇をここに葬り、戦勝祈願した。長府に殯歛(仮埋葬)した後、この地に再度仮埋葬したのか?古市古墳群の岡ミサンザイ古墳の中味は?


参考

豊田町の華山の麓にある豊浦山神上寺(参考)

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豊浦山神上寺、下関市豊田町大字江良

由来
神上寺は高野山金剛峰寺派真言宗の名刹で西の
高野山と称され朝廷諸将藩主の尊崇厚く幕末まで毛利藩主の保護を受け300石を賜った由緒ある古刹である。今から役1,300年前天智天皇の御代、九州彦山に修行していた役小角が瑞雲の懸る北方の高山を眺めて馳せ来りこの地の徳仙上人と力を合せて開山し、山頂に諸神を招いて祭りこの山を大神山と称した。奈良時代元正天皇の時権現に定められ上中下三所権現の社を建て参詣の道を開いたので邑人の信仰が厚くなった。平安時代朱雀天皇の御代に真言天台兼学の沙門唯行上人により、中宮に大御堂を造営されてから日増に繁栄し末寺末院が三千余坊に及んだという。天慶の乱に戦勝祈願の勅願あり一条天皇の御代土佐伊予の乱にも御祈願があり1万3千の神々を勧請された。その為この山辺を神原と呼び、大神山を神上山と改められた。鎌倉時代の初め、後鳥羽天皇の代建久5年に勅を以て愛染明王をまつり昼夜不退の温坐の供養が行わせられた。後醍醐天皇元享二年に堂舎を現在の位置に下ろされた。そこでこの山をこれから下山(後に月山、現在は華山)と呼ぶことになり、寺の名を豊浦山神上寺と改められた。明治維新まで、寺域に6ヶ寺があった。

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華山: 標高713m、下関市豊田町江良

豊浦山脈の最高峰で、晴れた日は瀬戸内海、玄界灘、日本海が一望でき、 山頂から拝む初日の美しさは西日本随一と言われます。 また、ハングライダーを楽しむこともできます。

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日の入り、秋分の日と春分の日には、沖ノ島あたりに日が沈む!


















東山麓の日野地区は琵琶湖東岸の蒲生郡日野町とつながりがあった。白村江の戦いの敗戦後、百済遺民の内の製鉄技術者らが、ここら辺りに一時滞在したと思わらる。




『 目で見るふるさと豊田の 歴史と文化 
平成11年 豊田町教育委員会  P77~80

日本神話時代から、秋津島(本州) の最西端の霊峰を敬い 「大神山」 と称え伝えられている。この霊峰では勅願寺の神上寺が設けられるまで、祈願所が、
(1) 神原(こうはら )(中宮)の時代
(2) 西ヶ岳・大日ヶ岳の時代
(3) 大御堂(おおみどう)の時代
と改められた。

(1) 神原 (中宮)(標高620 m)
最古の祈願所時代で、この神原に臨時に御霊代を設け祈願がされた。
    景行12年9月5日
景行天皇は熊襲親征で、周芳の娑麼(防府)に到着。武諸木等3将を国東郡に遣わされ、また使いを大神山に遣わして、神原に御霊代を設け、戦勝を祈願された。
    仲哀2~8年
仲哀天皇は大神山に登臨、銅鉾を四角四方に建て、注連縄を廻らして御霊代とし、熊襲の鎮定と馬台(ウマト日本国)の安泰を祈願した。(銅鉾現存、重要文化財)
    慶雲2年 (705)
役小角、彦山より来山、徳仙上人と神原に於て、国家鎮護万民安泰を祈願し開山する。 これが小角の祈願の終となる。(小角所持の笈が神上寺に保存)

(2) 西ヶ岳 (標高690 m)と 大日ヶ岳(標高700 m)
    天智天皇の頃 (662~671)
天皇、西ヶ岳に社を建て神原より神霊を遷させた。
    元正天皇御宇 (霊亀・養老年代、715-723)
西ヶ岳の社を大日ヶ岳(現NHKテレビ塔の所)に移され、熊野三所権現となる。山田村(矢田) の神功后皇来臨の地に、この熊野三所権現の分霊を祭る。

(3) 大御堂(おおみどう)
    宝亀7年 (776)
神原に大日ヶ岳の熊野三所権現の社を遷し、3柱の木造神像を鎮座して、その社前に仏式の礼拝堂「大御堂」 が建立された。
    大同元年 (806)
大神山の岩屋に空海が観音石を安置し、岩屋観音の本尊とした。
    天慶3年 (940)
朱雀天皇の綸旨を給わり、天台真言兼学の唯行上人が来山、平将門・藤原純友の乱鎮定を祈願した。
    正暦2年 (991)
花山天皇、藤原義懐・藤原惟成を同伴され来山、十一面観音を安置されて大神山を「神上山」 と改称される。
    寛仁3年 (1019)
大宰権師藤原隆家の嫡子経輔、刀伊賊来寇につき、宣旨をたまわり大御堂で鎮定を祈願した。
    延久元年 (1069)
藤原経輔の次子、周防権守長房は、経輔来山より満50年を期して、大御堂を再建し、豊田氏定住の基礎とした。
    応徳年間 (1084-86)
豊田氏2代大和守輔平と3代河内守輔行、大御堂で豊田氏と住民の安泰を祈願して定住。
    建久5年 (1191)
後鳥羽天皇の勅願により神上山大御堂に於て、愛染明王の昼夜不退の勤行始まる。