万葉集巻6-960番に大伴旅人の歌として、関門海峡の最狭部の早鞆の瀬戸が隼人の瀬戸として歌われている。
参考
① 万葉集巻6-960番
【題詞】帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首
(帥大伴の卿の芳野の離宮(とつみや)を遥思(しぬ)ひてよみたまへる歌一首)
【原歌】隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧<尓> 尚不及家里
【訓読み】隼人の 瀬戸の巌も 鮎走る 吉野の瀧に なほしかずけり
【通釈】名高い隼人の瀬戸の大岩も、鮎が走るように泳ぐ吉野の美しい急流にはやはり及ばないことよ
【補記】神亀五年か翌天平元年。
② 隼人の瀬戸の所在地:
⑴ 鹿児島県阿久根市黒の浜と天草諸島長島との間の黒の瀬戸
⑵ 北九州市門司と下関壇ノ浦との間の早鞆の瀬戸(早鞆の読みハヤトモの音とよく似た隼人(ハヤト)の瀬戸とも書かれた。和布刈神社)。当時、関門海峡を超えて九州側は隼人の地と認識されていた証しかも知れない!むかし、仲哀天皇が穴戸豊浦宮に駐屯し、ここから熊襲征伐に九州に渡る神話もある。
関門海峡、必ず通過し、必ず見ている
③ 大伴旅人(おおとものたびと)、天智天皇4年(665年)-天平3年7月25日(731年8月31日)は、大納言・大伴安麻呂の子。従二位・大納言。
720(養老4)年3月、征隼人持節大将軍として九州に赴任。6月17日、元正天皇より征隼人将軍旅人を慰問する詔が出される。727(神亀4)年末、帥として大宰府に赴任か(続紀には旅人の帥任官の記事なく、赴任の時期も不詳)。前任者は不明(715年多治比池守任)。一説に養老2年から旅人が兼任、この頃初めて赴任したとする。山上憶良らと大宰府歌壇を形成。(参考1、参考2、参考3)
④ 古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている。こうした近習の記事や雄略天皇が亡くなり、墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされるが、6世紀末や7世紀初め説もある。