日本国名の起源 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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いつから、なぜ日本と言う国号を使ったのか?

元々、倭国(わこく)の倭は従順と言う意味で、中国が馬鹿にして名付けたものでは無く、大をつけて大倭国や大和国と書いてヤマトと訓じても卑下するものではないが、矮小の意味にも通じる。日本側が喜んで使うべきものでは無いことは自明である。

元々、ヤマトとかヒノモトと自らを呼んでいたようだ!ヒノモト、ヤマトを日本(ニッポン)と改名しても不思議では無い。また、以前、朝鮮半島に任那日本府があり、日本(ニッポン)と名乗る伏線があった。8世紀初めころから正式に使い始めたと考えて良かろう!


追加(2015.10.27): 日本は元々、海人族安曇氏の国で、日本はヒノモトと読まれていたが、ヤマト政権が7世紀終盤にニッポンとかヤマトと読ませた(参考)。


参考

①  「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよなかな女性」の意。


② 大和(ヤマト)政権が我が国を日本国と呼び始めた時期

「日本」の国号成立について次の2説に絞られる。

1つは689年の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)施行の時点とする説である(吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、p.118)。網野善彦も飛鳥浄御原令が「日本」の国号成立であろうという(網野、p.20)。

もう1つは701年の大宝律令の公式令詔書式であるとする説である(神野志隆光『「日本」とは何か 元号の意味と歴史』講談社、2005年、p.21)。史料としては飛鳥浄御原令も大宝律令も残っていないが、現存する『令義解』に含まれる「古記」が大宝律令の注釈であり、これによって大宝律令を見ることができる。そこに公式令詔書式、つまり天皇の発する詔書の書式の規定があり、天皇を標示する形式「御宇日本天皇詔旨」が定められている。そこに「日本天皇」というかたちで「日本」が定められている(神野志、pp.20-22)。「日本天皇」について神野志氏は次のように説明する。まず「天皇」の称号は天武の時に既にあった。そして「日本」は「日本天皇」として定められた。それは国土の呼称ではなく王朝名である(神野志、pp.25-26)。いわば「唐皇帝」に匹敵するものとして「日本天皇」を用いた。

以上のように「日本」の国号が成立したのは689年または701年のいずれかと言える。689年の方の頃だとは思うが、史料により間接的に確認できるのは701年のほうである。このいずれにせよ「日本」の国号が成立したのは「7世紀半ばを遡らず、8世紀初頭を下らない。」(網野、p.20)と言える(参考)。

改名の理由はよく分からない!「新唐書」には、日本国は古の倭国であるが、夏音(漢音)を習うと、倭と言う名が雅でないので日本に改めたと言う。


③ 日の本(ヒノモト)

東国には畿内の朝廷とは異なる文化圏が存在し、「日の本」「日ノ本」「日高見国」と呼ばれていたようです。もちろん統一国家などではなかったようですが。この地域で軍兵を集め、畿内勢力に抵抗する東国の将軍を「鬼王」などと呼称していたとも言われます。

中国史書の「新唐書」には、日本、古の倭国なり、やや夏音(漢音)を習い、倭名をにくみあらためて日本を号す。日本、すなわち小国、倭の併せる所となる、故にその号を冒すとあるそうです。
倭国が日本という国号を使い始めるのは7世紀の後半で、新唐書を信じるならば、倭国が東の日の本国を侵略して、その国号を使用しだした、という事になるそうです。どこまで本当かわかりませんが。

日の本、日高見国の領域も時代によって変わるようで、今の茨城県、常陸国も日高見国の一部だったと言う人もいます。古代の前線基地たる香取神宮、鹿島神宮よりも北の土地はすべて日の本、日高見国だったのかもしれません。そのうち早めに畿内に帰順した地域が常陸国になったのでしょうか。日の本は畿内とは異なる東国の者たちが自分たちの尊称として使っていたものだったと思います。畿内からしてみれば彼らは別の呼び名でくくられていた事でしょう。それが日高見国だったり、エミシだったり蝦夷だったのかもしれません。桓武天皇の号令の下、坂上田村麻呂らが征服したエミシの地域も高見国、日高見国、と呼ばれていました。畿内風で言うエミシ達が、自分たちや自分たちの土地の事を「日の本」と呼んでいた可能性はあると思います。真偽のほどは定かではありませんが平将門も日ノ本将軍を称したそうです。日ノ本とは畿内勢力とは異なる東国の勢力を象徴する言葉だったのだろうと想像します。

先のエミシ一族の後裔たる安東家は鎌倉府の北条家に使えるようになりますが、室町時代には安東(安倍)康季が奥州十三湊日之本将軍、日下将軍を名乗ります。日之本将軍というのは私号にすぎませんが、時の天皇もその称号を認めていたとかで、安東家の経済力も含めた権威を感じずにはいられません。この頃の「日の本」といえば、津軽海峡周辺の文化圏をそのように呼んでいたそうで、鎌倉時代から蝦夷管領職にあり、この地域の経済圏を支配していた安東家がその地域の代表者として、そう呼ばれていただけかもしれませんが安東家としては先祖が治めていた地域を象徴する「日之本」を名乗る事に特別な意味があったようにも思います(ヤフー知恵袋)。

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日本中央碑(つぼのいしぶみ)

日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)(wikiより)。


④ 日下(ヒノモト、クサカ)

草香(くさか)、日下とも書く。古代,河内(かわち)から生駒山を越えて大和(やまと)に至る道の要衝で,孔舎衛(くさえ)坂(日下の直越(くさかのただごえ))があり,また入江とみられる草香江(河内湖)があった。この草香江あたりから東方向の大和が日出ずる国に見えたからであろうか(参考)。


⑤ 旧唐書、新唐書では

(い) 倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み改めて日本と為す〈旧唐書、日本伝〉
(ろ)日本は旧小国、倭国の地を併す〈旧唐書、日本伝〉
(は)後に稍く夏音を習い倭の名を悪み、更えて日本と号す〈新唐書、日本伝〉
(に)日本は乃ち小国、倭の并す所と為る。故、其の号を冒す〈新唐書、日本伝〉


⑥ トンデモ説、九州王朝論

倭国とは九州王朝のことで、大和政権は元小国の日本国と言い、7世紀末ころ九州王朝は滅ぼされた(参考)。

しかし、実際には九州は大和政権が支配していた。




⑧ 四海華夷総図

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1532年の中国で作成された世界地図(参考)。日本国と倭国が別の島になっていると言うことは、中国には、あやふやな知識しか無いことを証明している。当時まで日本は自国の正確な情報を漏らしていない証しです。これより古い1402年の地図(参考)の方が正しかった。当時の中国の世界に関する知識は退化しており、日本に対する知識も西欧列強が進出して来る16世紀末を待つことになる(参考)。