遣隋使は魏志倭人伝の内容を知らない可能性があり、魏志倭人伝の間違いなどを訂正する事が出来なかったが、小野妹子が裴世清を俀国(倭国)の首都、邪靡堆に案内し、ある程度正しい情報を与えてはいるが、口頭のみで漢字で書かれた文書は渡していない模様。国書は最低限の挨拶程度であろう!
遣唐使の時代の途中、倭国から日本国になったが、経緯を正しく説明していない。新唐書には日本書紀の歴代天皇名が正しく記載されており、これは文書で伝えられている証である。魏志倭人伝や隋書東夷伝の誤りや、曖昧な文章、現大和政権に不都合な箇所の訂正を指摘しようと思えば出来る時期にあるが、旧唐書や新唐書に反映していない。例えば、魏志倭人伝の中の地名、国名の正しい漢字表記などが挙げられる。既に忘れさられた地名などは、遣唐使の時代の地名に置き換えようと思えば可能であり、また正しい方位や正確な旅程への修正なども考えられる。
遣隋使、遣隋使には相当な人間が随行し、長年滞在した僧侶もおり、日本の詳細情報を問われた可能があるはずだが、文書として残っていないのは意図的な機密保持が日本側にあったのであろう!最古の日本地図である行基図も、渡して正確な日本列島の情報を旧唐書や新唐書に書いてもらうことも可能である。
入唐僧の空海も、唐から得たものは多大であったが、日本から唐への手土産は無かった。
参考
① 魏志倭人伝
769年称徳天皇が大宰府の請に応じて、『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜しています(ヤフー知恵袋)。
② 隋(呉音:ずい、漢音:すい、581年-618年)
第1回 開皇20年(600年)
第2回 607年(推古15年)
第3回 608年(推古16年) - 609年(推古17年)
第4回 610年(推古18年) - ?
第5回 614年(推古22年) - 615年(推古23年)
本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなる。特に「経籍志」が名高い。唐の魏徵と長孫無忌らが唐の太宗の勅を奉じて勅撰を行う。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成する。第3代の高宗に代替わりした後の665年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成後、編入が行われる。
「東夷伝」と呼ばれるものは、第81巻列伝46にあたる。この書の中では、当時の俀國(倭国 ヤマト政権)とその王多利思北狐や朝鮮半島にあった高句麗、新羅、百済と琉求について記述されている。首都は邪靡堆としている(wikiやURLを参考)。
③ 古事記は712年、日本書紀は720年に完成(参考)
④ 唐(とう、618年-690年、705年-907年)
第1回 舒明2年(630年) - 舒明4年(632年)
第2回 白雉4年(653年) - 白雉5年(654年)
第3回 白雉5年(654年) - 斉明元年(655年)
第4回 斉明5年(659年) - 斉明7年(661年)
第5回 天智4年(665年) - 天智6年(667年)
第6回 天智6年(667年) - 天智7年(668年)
第7回 天智8年(669年) - 不明
第8回 大宝2年(702年) - 慶雲元年(704年)
第9回 養老元年(717年) - 養老2年(718年)
第10回 天平5年(733年) - 天平6年(734年)
第11回 天平18年(746年) - 不明
以下続く
第20回 寛平6年(894年) 停止
旧唐書
完成と奏上は945年(開運2年)6月
「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立
「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性はある(wikiやURLを参考)。
新唐書
北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。
「日本伝」としてまとめられている。
隋の開皇末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている(wikiやURLを参考)。
⑤ 行基図
⑥ 空海
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(旧歴)(835年4月22日))は、延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡るが、2年で全てを修めて帰国した(wikiより)。