九州王朝とは「紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた」と言う(wikiより)。
神功皇后、応神天皇、仲哀天皇などの活動に関する下関の古代の歴史や伝説、伝承は九州王朝の歴史だとか?穴門国や豊浦宮なども九州にあるとか(参考)?挙句は山口県の穴門や周防は筑紫の穴門・周芳で同じ場所(現在の戸畑区)にあるとか、、全てが九州の中に取り込まれている。
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考古学的な遺跡が出て来ないのは、ヤマト政権に破壊された為とか、移築されたと主張するか、考古学が間違えているとか、白を黒と言うでしょう!又は、九州で出土した物は皆、九州王朝の物で、これが朝鮮半島から出土すれば九州王朝の進出と主張するでしょう!ウリジナルもいいところです。
実際には、倭国大乱が終息し、卑弥呼が女王になった段階でヤマト政権(邪馬台国)が九州から近畿の西日本全体を支配したので、2世紀後半以前に九州全体を支配する九州天皇家の意味での九州王朝は滅んでいる。
参考
以下、九州王朝論者の主張と実際を示す。
以下、九州王朝は卑弥呼の時代には滅んでいた証拠を示す。
⑦ 邪馬台国の範囲
10 ヤマト政権と九州支配
12 661年以前は、太宰府の地は無名の原野であった、むしろ筑後川水系の水田地帯の朝倉の方が開けていた
14 小野妹子が案内した隋の使者に秦王国を説明した
15 神功皇后が三韓征伐から凱旋し、北九州市小倉区北区の篠崎八幡宮の西に1キロの所の山に登られ、ここから見て穴門豊浦宮は門司の方向にあると言われた。戸畑区では無かった。
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