遣新羅使、遣渤海使 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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日本(当時はまだ倭国)は大化改新から大宝律令を制定する間、すなわち日本と名乗るまでの間に国家体制を確立してきた。その間に危ない橋を渡りながら、唐や新羅に朝貢しながら体制を固めて来たことが理解できる。

さらに後の8世紀中頃から9世紀に渤海とも交流したが、複雑な国際情勢の中で全ての国と仲良くした苦労がしのばれる。


参考

① 白村江の戦いの後、統一新羅に対し、遣新羅使が頻繁に任命されるようになったのは、唐の進出により百済が滅亡し、白村江の戦いにより唐との関係が緊張してからである。このような状況の下、日本と唐は遣唐使を行うなどで関係改善しつつあったが、唐が日本を征伐するという風聞があったこと、668年高句麗の宝蔵王が唐に投降(唐の高句麗出兵)したことで唐からの圧力が強まったことに危機感を覚えた新羅との利害が一致したことなどから共同で対抗しようとする動きの一環として頻繁な交流が始まったと考えられている。白村江の戦いにおいて日本と新羅との直接的な戦闘がほとんどなかったことなどから、日本側も受け入れやすかったと推定されており、日本側の目的としては、先進技術の収集のほかに、海外情勢の調査もあったと考えられている(wikiより)。



② 遣渤海使(けんぼっかいし)とは、日本が渤海に派遣した使節であり、728年から811年までの間に14回(うち1回は渤海経由の遣唐使。このほか操舵手等の派遣が1回。)の使節が記録に残っている(wikiより)。


③ 遣唐使より多かった遣新羅使(参考)

遣唐使 630~894年 20回
遣新羅使 668~779年 28回
遣渤海使 728年~811年 14回
~919年 渤海使の来航が34回

天武・持統朝は古代史上最大の内乱といわれた壬申の乱(西暦672年)以降の約30年間は遣新羅使しかおいていない。しかし、唐の対外活動に関する情報は十分に得られていたと思われる。

朝鮮半島の情勢は新羅が百済を滅ぼし、さらに高句麗を制圧、668年に新羅は朝鮮半島全土を掌握し、統一新羅となる。統一新羅時代の始まりと日本の天武・持統朝の始まりはほぼ同時期。