古墳時代の終焉と大化改新 | 日本の歴史と日本人のルーツ
古墳時代の終焉と大化改新とは時期が一致している。まさに考古学的に大化改新の時期が証明できる。
大化改新(645年)の直前:
舒明天皇陵(押坂陵、上八角下方墳、643年)、八角部対角長約42メートル、その下は三段で最下段の幅約105メートル
大化改新(645年)の直後:
孝徳天皇陵、円丘、654年
直径30メートル斉明天皇陵、円丘、661年
直径45メートル天智天皇陵、上八角下方墳、672年 対角長約46メートル 方形壇70メートル 高さ8メートル弘文天皇陵、円丘、672年
直径20メートル天武天皇陵、八角墳、686年 東西58メートル
大宝律令後(701年):
持統天皇(最初の火葬、天武持統合葬陵、703年1月13日)
参考
最後に古墳が消滅した8世紀前後の列島の状況を見ていきたい(参考)。
七世紀:古墳時代の終焉と形態の変化
七世紀中葉以降、即位した大王については八角墳が造営される。その最古のものは舒明天皇の可能性が強く、大化のクーデター(大化改新、645年)以降のことと思われる。この八角墳の出現は示唆的な出来事である。それまでヤマト政権の大王は規模こそ大きいが、他の構成員である畿内や地方の首長層と同じ前方後円墳であった。ここにいたって初めてそれらの首長層を超越した存在として大王のみ固有の古墳を創出するのである。八角の意味は中国の政治思想で天下の支配者の立場を象徴する。さらに七世紀後半を境にして畿内や地方の豪族の大型の墳墓も姿を消す。この七世紀後半には被支配者の郡集墓もその造営を事実上停止するのである。まさに古墳時代の終焉である。
大化改新の詔(wikiより)
大化2年春正月甲子朔(正月1日)、西暦646年に制定、詔は大きく4か条の主文からなり⑴公地公民、⑵国郡制、⑶班田収授、⑷租庸調など
① 薄墓令、古墳時代の終焉
今まで陵墓は自由に作ることができたが、作ることの出来る陵墓を身分に合わせて規定し直した。殉葬の禁止や、天皇陵の造営に費やす時間を7日以内に制限するなど、さまざまな合理化・簡素化が進められた。この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることになる。
② 火葬『続日本紀』によると、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧道昭である。また最初に火葬された天皇は、702年に火葬された持統天皇である。8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士も火葬が広まった。
③ 特定の氏族が特定の役職を世襲する制度を廃止、大臣・大連の廃止、冠位制度の改訂、礼法の策定
④ 白村江の戦い660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍に攻められて滅びた。661年、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め(5月、第一派出発)、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。662年、百済再興の遠征軍(3月、第二派出発)は白村江の戦い(663年8月)で唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡する。中大兄皇子は筑紫や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置した。
⑤ 白村江の戦いの敗戦処理、663年~
⑥ 壬申の乱671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。
⑦ 大宝律令、701年~
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