九州王朝の九州年号は無かった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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邪馬台国論争は江戸時代からあった。本居宣長は九州説であった。彼の弟子に鶴峯戊申と言う人物が「九州年号」と言う私年号の対照表をつくった。参照したとする資料は現存しない。

当時もそうだか、邪馬台国が九州にあったなら九州王朝があり、九州年号を持っていたと考えるのは自然であり、江戸時代に私年号を整理して年号対照表を作って、九州王朝の年号であると主張したのであろう。

従って、現在の九州王朝論と九州年号は江戸時代に作られた資料に基づいた議論であり、実在性は疑わしい。


追加 2017.10.26

偽書とされる古史古伝、特に大分県に伝えられたウエツフミにウガヤフキアエズ王朝の存在があるが、記紀の原文は九州王朝の歴史書からの盗作とする九州王朝論者は記紀の記述をそのまま踏襲し、やはりこれも否定するのであろうか!?


参考

① 九州年号対照表
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この対照表は付近の石原家と呼ばれる庄屋に遺されていたものですが、江戸期まで実際に使用されていた形跡があり今後の研究が俟たれるところです。


九州年号には二中暦、海東諸国記系など幾つかの系統がありますが、これは「善記」で始まり、「大長」で終わるものです。「大長」が近畿大和朝廷が正式に使用し始めた時期に重複する年号であることから、九州王朝の中枢領域で使用されていたものである可能性もあり、非常に貴重なものと考えています。


江戸時代以前には、こうした逸年号の研究は盛んであった。『二中歴』は後醍醐天皇代(一三一八~一三三九)の本であり、逸年号を収集した史料としては、もっとも古いものだ。これ以降、『麗気記私抄(一四〇一)』→『海東諸国紀(一四七一)』→『如是院年代記(一五七〇)』と同系統の史料が続くのがわかる(参考)。


② ここでは「九州年号」というものについて記します。

各地の寺や神社、あるいは古文書などいろいろな記録に古代天皇家の正史である「日本書紀」にはない「年号」が見つかっています。これらの年号を記す資料としては「二中歴」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「建長寺年代記」「麗気記私抄」「王代年代記」「勝山記」「海東諸国紀」「宝光寺年代記」「和漢合運図」「和漢合符」「三国合運」「和漢年代記」「王代記」「年代記」「建仁年代記」「如是院年代記」「襲国偽僭考」「興福寺年代記」「続群書類従本『善光寺縁起』」など各種、多数ありますが、たとえばその中の「襲国偽僣考」というものは、江戸末期の国学者「本居宣長」の弟子の「鶴峯戊申」という人物の著した書物で、その中にこれらの年号を列記している部分があり、彼はそれを「『九州年号』と題した古写本より引用したものである」旨の記述をしています。しかしその古写本自体は現存していません。

また、熊本県で江戸時代に学者が作ったものを集大成した『肥後国誌』や『久留米史料叢書第六集』(久留米藩が江戸時代(寛文年間)に領内の各神社等に、それぞれの由緒を書き出すようにと通達を出し、各神社等が来歴を書いた手紙、公式文書を収録したもの)などがあります。

以上のような各種の書物に出ている「年号」には、異なる系統の種類の年号がいくつか確認されていて、やや混乱がありますが、整理すると五二二年(あるいは五一九年)の「善記」に始まり、七〇一年の「大宝」まで続きます。しかし、それらについては従来「実在性」に強い疑いがもたれていました(参考)。


③ 私年号(しねんごう)

紀年法として元号を用いた東アジアにおいて、安定した統治能力を確立した王朝が定めた元号(公年号)以外の年号を指す。異年号(いねんごう)・偽年号(ぎねんごう)・僭年号(せんねんごう)とも呼ぶ。

主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。日本では、正史には記載されていないものの、天皇が定めたものとして後世の史書に記載があったり、考古資料に使用例が見られたりする古代の年号を逸年号(いつねんごう)と呼び、これに含める場合がある。なお、「私年号」を当時の王朝に対する対抗的性格の薄いものと定義し、明確な覇者的意志をもって建てられる「偽年号」「僭(窃)年号」などとは区別する場合もある(wikiより)。


④ 邪馬台国論争

古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑紫国山門郡説を説いた。 その後、国学者の本居宣長は「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において九州熊襲説を提唱した。大和朝廷とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で卑弥呼とは神功皇后の名を騙った熊襲の王であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢倭奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である(wikiより)。


⑤ 鶴峯 戊申(つるみね しげのぶ、1788年8月23日から1859年9月20日)とは江戸時代後期の国学者である。

倭人の邪馬台国などの倭国は記紀の熊襲であり、卑弥呼はその国の女酋(女首長)であるという。また熊襲の国を襲国といい、その元号の痕跡が『麗気記私抄』、『海東諸国記』、『如是院年代記』などにあるとして九州年号としてまとめた。しかし、これらが金石文として出土した例はなく一般には後世の偽作と考えられる(wikiより)。


⑥ 九州王朝は無かった


⑦ 邪馬壱国は無かった


⑧ 隋書は邪馬臺国と言っている


⑨ 邪馬台国の範囲


10 女王国


11 ジョア・ロドリゲスが見つけた私年号

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ここにも二中記やその他の私年号と異なる年号を記載している(参考)。



12 私年号を見ると現在まで続く例があり、宗教団体が作成している。古代のものも一概には寺社で使用されていた(wikiより)。


13 九州王朝「倭国」は「壬申の乱」で滅亡したという説がある。しかし、九州年号「白鳳」は、西暦661年から684年の23年間の長期間に亘って使用されている事だ。九州年号を見る限り、522年の「善記」建元以降、712年の「大長9年」迄、実に190年に亘って記録されている。


14 九州王朝は無いが、蘇我氏は天皇級の功績があり、私年号を使ってもおかしくない(参考)。