筑紫国の名前が現れるのは、どんなに早くても西暦280年である。卑弥呼の生きた時代以前は北九州をチクシとは呼ばれ無かった。まして、弥生時代には、筑紫も筑紫の日向、筑紫の日向のクシフル岳も存在しなかった。
伊都国、すなわち現在の福岡市西区から糸島市に高祖山がある。近くに日向峠のあることは有名である。ここは邇邇芸命の天孫降臨の地「筑紫の日向の高千穂のクシ触之峯」であると古田武彦氏は主張する。彼は黒田家等の古文書から高祖山近くにクシフル山の地名が残っていると言う(参考1、参考2)。
しかし、魏志倭人伝に出てくる伊都国は高祖山西麓の糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域であったとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、三雲南小路遺跡・平原遺跡である(参考)。
すなわち、まだ、この地域は筑紫とは呼ばれていなかった!ましてや、邪馬壱国などは論外で、断じて存在していない!大体、黒田家の古文書と言うものの由来をどう評価したのか聞いてみたい!
記紀は日本の正史として8世紀初期にまとめられたが、3世紀以前の北九州の在地勢力の口伝を誤りや転化無しに盗むなんて事は考えられ無い!どこの地域にもあることだか、現在の糸島市の神社の伝承は、江戸時代位に記紀の内容を流用したと考えた方が合理的である。
参考
⑴ 魏志倭人伝は280年-297年に発行されたが、この280年時点までは筑紫国は記述されていない!
⑵ 200年代半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、413年の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる(wikiより)。、
⑶ 隋書や北史では、608年当時は筑紫(竹斯)国は存在した。
⑷ 日本書紀(720年完成)では、九州を筑紫洲(つくしのしま)と表記している。その記述から5、6世紀のヤマト政権には筑紫国・豊国・肥国・熊襲国の四区分に観念されていた(wikiより)。
⑸ 日本書紀、宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり」に、筑紫が見える(wikiより)。
⑹ 江戸期の文献の説では、筑前が古来、異国から「太宰府」へ向かう重要な路であったため、それが石畳にて造られていた。それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。石畳の道は筑前の海岸に現存しているという(wikiより)。この説では「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)である(wikiより)。
⑺ 筑紫の日向の語源、5世紀ころ
⑻ 宗像の女王国
⑼ 福岡県福岡市西区の高祖山の近くに日向峠(ひなたとうげ)、日向川(ひなたかわ)があるので、このあたりが筑紫の日向(ちくしのひなた)であろうとの主張についても、日本書紀では日向を「ひなた」では無く「ひゅうが」「ひむか」と訓じており、筑紫の日向は「ちくしのひむか」と読むのが適切である(参考)。
(10) 筑紫野市の筑紫神社の社伝に筑紫の云われに関する説明があるが、時期が不明であり、また内陸すぎてヤマト政権の高官の耳に届くかどうか疑問がある。
注:
① 魏志倭人伝とは正確には三国志の中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。
② 隋書 東夷 俀國伝、 北史 巻94 列傳第82での日本の記述:
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
— 隋書 列傳第四十六 東夷 俀國
明年 上遣文林郎裴世清使俀國 度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也
— 北史 巻94 列傳第82
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴世郎を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
③ 宋書は432年着手、日本については「夷蛮伝」(いばんでん)の記述の中に、倭の五王から朝貢が行われたことが記されており、この時代の日本の貴重な資料となっている(wikiより、参考)。