奴国は倭国大乱に関わらず、邪馬台国の時代から従い、儺県として大和政権の下にあった模様。107年に倭国王帥升(倭面土国王)が後漢に朝貢しており、この時点で倭国の代表権を失っていると見なされる。
参考
3世紀の倭国の中の一国の名。《魏志倭人伝》にみえる。同書には,伊都国につづいて〈東南,奴国に至る百里。官を兕馬觚(しまこ)と曰い,副を卑奴母離(ひなもり)と曰う。二万余戸有り〉とみえる。奴国は後の儺県(なのあがた)(福岡市博多区)の地。《後漢書》倭伝にも〈建武中元二年,倭の奴国,奉貢朝賀す。……光武賜うに印綬を以てす〉とみえ,57年(建武中元2)に後漢に朝貢したことが知られる。光武帝の賜った印が〈漢委奴国王〉の金印で現存(コトバンクより)。
奴国とは、1世紀から3世紀にかけて福岡市あたりにあったと考えられる小国で、西暦57年に後漢から「漢委奴国王」の印を贈られています(知恵袋より)。
南方向、上に住吉神社、その上が那珂川、下の博多湾岸に
遣随使や遣唐使の港となる那の津(那大津)がある。
○ 須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)「奴国の都」の最有力候補地とされ、奴国王の墓といわれている。福岡平野に大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。
1979年とその翌年に行われた発掘調査において確認されたもので、116基の甕棺墓、およびそれぞれ9基の土壙墓と木棺墓のほか、多数の壙墓が検出されている。調査前に墓地の一部が破壊されていたことから、既に破壊を受けたものを含めるとその埋葬遺構は本来300基以上に及んでいたものと推定されている(参考)。